なぜメモ論なのか / うまく考えられるようになりたい / 俯瞰と使用
はじめに
『すべてはノートからはじまる』の5刷目が決まったようです。編集者さんから連絡メールを頂いたときはびっくりしました。なんといっても2021年に出版された本ですからね。
◇Amazon.co.jp: すべてはノートからはじまる あなたの人生をひらく記録術 (星海社新書)
とりあえず、長く読まれているのは嬉しいものです。物書き冥利に尽きます。
〜〜〜ポッドキャスト〜〜〜
ポッドキャスト、配信されております。
◇BC083 『ザ・フォーミュラ 科学が解き明かした「成功の普遍的法則」』と『残酷すぎる人間法則』の2冊から考える人間関係
今回は、ごりゅごさんが二冊の本を取り上げ、「人間関係のあり方はどのような形が望ましいか」について語ってくださりました。インターネット老人会は個人主義、あるいは傭兵スタイルを好む方が多い印象ですが、だからこそ意識して人間関係を構築していくことは重要だろうと推測します。
〜〜〜まとめるのもたいへん〜〜〜
今、シゴタノ!に書いてきた原稿をまとめて本にしようと目論んでいます。かなりの原稿数があるので、セルフパブリッシングでシリーズものにしてもいいかな、というくらいの印象です。
で、原稿自体はテキストファイルとしてずら〜〜〜と保存されており、言ってみれば冷蔵庫に「食材」が山盛りで、あとは料理を始めるだけ、という状態なのですが、むしろ食材がありすぎて何をどう作っていいのかを決められません。まさにジャム実験の通りです。
当たり前ですが、素材の数が増えるほど「切り口」の可能性も増えていきます。あれもできるし、これもできる。こうなると逆に何もできません。
たとえば一年に一回、その年に書いたものをある程度まとめる作業をしておけば、切り口の数自体が有限化されているので、もう少し進めやすかったでしょう。しかし、ずっと放置してきたので、何一つ有限化が行われていません。無限の切り口。
とは言え、過ぎたことを嘆いてもはじまらないので、何かしらの切り口を「えいや」と決め、そこから少しずつ広げていくやり方を進めてみましょう。
〜〜〜ネットの良さ〜〜〜
そういえば、「メモ魔」という言い方はするけども「ノート魔」とか「手帳魔」とは言わないな、と思ってそれをつぶやいたら、結城浩さんから「〜する」が後につけられるかどうかがポイントではないかとリプライを頂きました。
たしかに「放火魔」(物騒)という言葉を見ても、前についているのは動作であり物の名前ではありません。現状の日本では「ノートする」とか「手帳する」とは言わないので、「ノート魔」や「手帳魔」という表現にはひっかかりを覚えるのでしょう。
*ちなみに倉下がよく使う「ノーティング」は「ノートする」という翻訳になります。
で、それとは別に「読書猿」さんの「読書する猿」(自分は読書する猿にすぎないという謙遜)という表現が面白いなと思ったので、自分なりに「記憶するhoge」というのを考えてみようと思ったのですが、なかなかうまい言葉が見つかりませんでした。
同じようにそのこともツイートしてみたところ、池谷和浩さんからいくつか案を頂きました。
この中の「鼠」が、私のフィーリングにヒットしました。狙い的にもあまりかっこいい動物やかわいすぎる動物はズレてしまうので、「鼠」くらいがちょうどいい感じです(現実の鼠をバカにしているわけではありませんので、あしからず)。
でもって、村上春樹さんの作品を愛読する人間にとって、「鼠」というのは一定のニュアンスを帯びる名前でもあります。その意味でもよいですね。記録する鼠。記録ネズミ。
「知的」なイメージの動物としては、やはりフクロウが思い浮かび、実際そのアイコンをよく使っているのですが、ものすごく冷静に自分のことを振り返ってみれば、落ち着いた雰囲気のフクロウとは違って、いろいろな領域をちょこまか動き回り、ぜんぜん落ち着きがないという意味で鼠的な雰囲気の方が近しいと言えます。
しかしながら、そういう発見は自分だけで考えているとなかなか思いつかないものです。どうしても「理想像=フクロウ」に引っ張られてしまうのです。
というわけで、やっぱりインターネット=共同知というのはいいな、というお話でした。自分ひとりでは考えつかないような情報・着想をつれてきてくれます。
皆さんはいかがでしょうか。なんだかんだいってやっぱりインターネットはいいよな、と思われた経験は最近おありでしょうか。よろしければ倉下に教えてください。
では、メルマガ本編をスタートしましょう。今回は、メモ論の第一回、知的な欲求について、情報ツール話の三つをお送りします。
なぜメモ論なのか
これからメモについて考えていこう。
それにしても、なぜメモについて考えるのだろうか。そんなありふれた行為、もっと言えば、あまりにも当たり前すぎて「技術」と呼ぶのすらはばかられるような行為について改めて検討する理由はなんだろうか。
一つには、私がメモ魔だからだ。ちょうど18歳くらいの頃からポケットにミニノートを忍ばせてさまざまなことをメモしてきた。学業であれ、執筆であれ、家政であれ、どんな場面にもメモは登場する。そうしたメモを少しでも「向上」したい思いが私にはある。もっとうまくメモしたい、メモを使いたい気持ちがあるわけだ。
本連載の探究は、そうした自分の「欲求」が一つの原点になっている。
しかし、それだけではない。メモについて改めて検討するもう一つの理由は、それがありふれた行為であり、当たり前すぎて「技術」と呼ぶのすらはばかれるまさにその点にある。あまりにも日常的なものは、技術や技能として認識されない。それは分析・向上・錬成といった視点で見られていないことを意味する。
たとえば呼吸だ。私たちはごく普通に呼吸をする。特に問題はない。毎日を問題なく送れている。しかし、そこに技術的介入の余地がまったくないのかと言うと、それは違うだろう。たとえば深呼吸は立派な呼吸の技術である。長期間の訓練は必要ないにしても、意識的な動作の促しはあった方がいい。
同様に、過呼吸に陥ってしまったときは、ビニール袋などに口を差し込み、酸素の吸入を意識的に減らすことが有用になる。これも意識的な介入であり、ある種の工夫だ。
私たちは日常的に問題なく呼吸はできているが、しかしそれ以上のものが何も存在しないわけではない。しかし、日常的に問題なく呼吸できているがゆえに、それ以上のものを模索する視線は自然には発生しない。なんらかの問題が生じたときにはじめて着目される構造になっている。
おそらくメモもそうではないか。私たちはたいていのメモを問題なくこなせる。だから、メモを重用していると共に軽視もしている。そこにある深みを見つめようとはしていない。技術的な発展の余地が、イメージの中においても疎外されているのだ。
だからこそ、メモについて改めて考えてみようと思う。
ここから先は
¥ 200
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?