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生まれ派と極端な思考とラベルづけ

結城メルマガ552号に書かれていた以下の文章。

何か出来事が起きる。起きた出来事が現在の自分の望まないものであった場合に「私はいつもこうだ。いつもこうなる私はダメな存在だ」と自分に引き寄せて考えてしまうケースがあります。

とてもよくわかる感じです。きっとそこで働いている思考は、

  • 生まれ派

  • 極端な思考

  • ラベルづけ

の三つでしょう。

「生まれ派」とは、「育ち派」と対になる概念です。ようは人の能力は生得的に決まっているのか、それとも後天的に開発されるものか、というスタンスのことです。実際はその二つが複雑な割合で混じっているのでしょうが、ここで重要なのは実際がどうかではなく、その人がどのように捉えているのか、です。生まれですべてが決まっていると捉えているのが「生まれ派」で、そうではなく経験や訓練によって獲得されると考えるのが「育ち派」です。
*『Learn Better』で紹介されています。

で、「育ち派」の方が失敗に対して耐性があり、状況を改善するために意欲的に動く割合が多いという話です。

おそらく「生まれ派」にとって、望ましくない出来事は「自分がダメな存在である証拠」として機能するのでしょう。ほら、やっぱり、というわけです。ダメなことが確認されたのだから、もうそれ以上何をしてもダメだという結論が出てくるのはナチュラルでしょう。

一方で、「育ち派」にとっては、その出来事は一つの過程であり、実験結果でしかありません。むしろ、「じゃあ、どうしたらいいのか」と頭を働かせる契機になります。つまり、「育ち派」の方が行動的というか、変化に対して意欲的なのだと言えるでしょう。

もう一つ、先ほどのような思考のときは、たった一つの出来事を「完全なる証拠」として捉えている点も見逃せません。つまり、極端な思考が働いているのです。そこでは、「別なときには、別な結果が出るかもしれない」という想像力が制限されています。

サイコロを一度振って6が出ても「これは必ず6が出るサイコロだ」と断言するのはかなり危うさを感じますが、まさにそれと同じことが行われています。結局それは、「生まれ派」的思考の延長線上にあると言えるのでしょう。

で、そうしてラベルが生まれます。「私はダメな存在だ」というラベルです。何かに名前を与えることの効果は、ここで論じるまでもないでしょう。対象を認識的に固定化させる強い力を有しています。「私はダメな存在だ」というラベルが貼られたら、あらゆる認識は迂回するためのルートをすべて無視して、その認識を最短距離で突っ走ります。それがラベルの効果だからです。

現実のラベルがそうであるように、認識のラベルも基本的には短いフレーズに限定されます。非常に複雑で、入り組んだ表現はとられません。機微はなく、ただ言葉だけがあります。あるいは印象かもしれません。その印象にむかって、一直線に進むものがラベルです。「別の可能性もあるかもしれないな」というような余計な思考を誘発させるものはラベルには不向きです。ラベルはもっと断定的で、直感的な処理に適した形で生成されます。

なんにせよ、こういう形に思考が固まってしまうと抜け出すのは容易ではありません。あらゆる証拠が「私はダメな存在だ」を示しており、それに資さない証拠は認識に上ってこなくなるからです。ある種の陰謀論の働きと非常に似た格好です。

おそらく私たちはゆっくり考える余裕を持たないとき、精神的あるいは時間的にせっぱ詰まっているときに、そのような思考を用いるのでしょう。なにしろ上記のようなプロセスは、徹頭徹尾「思考の省略」として機能するからです。思考の省エネなのです。

だからこそ、日常的に余裕をなくさないようにしたいですし、そうでなくなったときには余裕を回復することを心がけたいところです。

また、自分が何かを考えていたら、それをそのまま真として受け入れるのではなく、ワンクッションおいて「自分は、○○だと考えているな」とメタ的な捉え方ができるようになりたいものです。

もちろん、そうした捉え方もまた、ある種の余裕があってこそ、という側面はあるのかもしれませんが。

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