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第二十回 意志を刻む道行きの中で

いよいよこの連載も最後の回を迎えました。

デイリータスクリストのつくり方から始まったこの話は、執筆におけるアウトラインを巻き込んで、最終的には「自分」や「意志」にまつわる話にまでたどり着きました。

いささか大げさに感じられるでしょうか。しかし、この世界において、大げさな話など一つもないのです。特に「自分」が関わるものならなおさらです。

これまでのタスク管理の技術は、ビジネスパーソン向けに提示されており、そこでは「やるべきこと」は先駆的にすでに決定されているものでした。いわば特権的な「優先度」を持っていたわけです。

タスク実行者の裁量は、「いつ・どのように行うのか」だけにかかるものであって、より根源的な問いは封じられていました。そこでは「自分」などは不要で、むしろ邪魔なものだったのです。なければないほど良い。そういってもいいでしょう。

それは組織(あるいはその文化)の中において必要な要請だったのかもしれません。しかし、自分と世界の対峙の仕方はその一通りだけではないのです。

かといって、最近よく見受けられるようになった「自分のやりたいことをやっていればそれでいい」的な言説は、魅力的には響くものの、かなり極端な意見でしかありません。そこまで十全に信頼を置けるほど「自分」(あるいはその感覚)は確かなものではありません。ルーレットで自分の好きな数字に全財産をベットするのはさすがにギャンブルが過ぎるでしょう。

二つのはざまがあるはずなのです。

「自分」を完全に抑圧するのでもなく、かといって「自分」だけで生きるでもない、そのはざまが。

デイリータスクリストは、人間の記憶の不完全を補うためのツールです。それを作るだけで、飛躍的に事務作業はうまく回るようになります。しかし、すべてがそれでうまくいくわけではありません。「思うように」はいかないことも多々起こります。理性が想定した通りに、計算した通りには進まないのです。

それは一つには、人間の不完全さがあります。右手を挙げようと思って挙げるのと同じ程度で自分の行動を制御することはできません(もし可能なら、世界中の書店からダイエット本が消え去っているでしょう)。事前に「やろう」と思ったことが、そのままできる保証はどこにもないのです。

また、単に見積もりの甘さもあります。必要な行動を計上し損ねたり、時間の計算が緩かったり、想定しうるトラブルに備えていなかったりと、「想定」や「計算」の精度が低いことによる、不整合が起こるのです。

それに事前に完璧にシミュレーションしていたとしても、予想外の出来事はいつでも起きます。地震の予測はできませんし、ラプラスの悪魔は否定されています。簡単に言えば、未来のことは完全にはわからないのです。それはつまり、この世界はままらないということです。

その予測不可能性は視野を広くしていけばいくほど、階層を上がれば上がるほど、顕著に現れてきます。

これに対処する一番極端なやり方は、あらゆる予測を捨ててしまうことです。予測をしなければ、その予測が外れることも、その結果起こる不合理もすべて消滅させられます。そして、すべてをアドホックに対処していくのです。

もう少し柔らかい対処法としては、「視野の広い予測はしない」があります。たとえば、今私の目の前にあるアイスコーヒーはあと10分もすればぬるくなってしまうことはおおよそ確からしいので、早めに飲んでしまうという「予測と決断」はそう悪いものではないでしょう。しかし、一年後の珈琲豆の相場を予測して、先物取引するのはかなりのリスクを伴います。

前者のような場面に限って予測を使えば、予測が引き起こすデメリットを最小化できるはずです。

しかし、そもそもなぜ予想(予測)・計画・ビジョンなどを立てるのでしょうか。そういう根本的な疑問が生じます。

実は重要なのは、未来の予測ではありません。それがどれだけ正しいとか、役に立ったということではないのです。少なくとも、個人の生においては、そういうことが言えます。

では何が重要なのかと言えば、「これこれこういうことがあり、こういう選択肢がある。(x)私はこれを選ぶ」という選択です。選ぶこと。それが大切なのです。なぜならば、そこには意志の発露があり、それがつまり「自分」の足跡だからです。

(x)には、「だから、」が入るかもしれませんし、「にも関わらず、」が入るかもしれません。どのような言葉が入るにせよ、その選択には、自分の意志が反映されています。

単に選んでいるのではないのです。状況を見据え、未来を予想し、選ぶこと。つまり、ただ現状の中だけで意思決定せずに、先行きを見据えた決定を下すことで、そこには条件反射的選択とは違ったものが顔をのぞかせます。右手を挙げる信号が目に入ったら右手を挙げるといった「動作」ではなく、熟慮という脳内のニューロンネットワークをグルグルと巡回した「行動」と「決断」がそこには現れるのです。

翻って、最初に立てた計画に固執し、必ずその通りに行くようにするという態度について考えてみましょう。

計画とは、「自分の頭で考えたこと」であり、それはたしかに自己の発露ではあるでしょう。「好きなことで生きていく」が評価されるのも頷けます。

しかし、その「頭で考えたこと」にはいろいろなものが欠けているのは先ほども書きました。極端に言えば、「自分が想定できるもの」しか取りこめておらず、それ以外のもの、つまり他者性・外部性がまったくありません。にもかかわらず、その通りにいっているとしたら、何かいびつなことが起きているのだと考えられます。

また、計画が「自分の頭で考えたこと」だとしても、その計画には自分の一部分しか入っていません。「自分のこと」についても、自分は一部分しか知ってしないのです。つまり、「好きなことで生きていく」は、露悪的に言い換えれば「ある時点で自分が好きだと思っていることだけしかやらず、それ以外の好きがあるかもしれない可能性を抑圧して生きていく」となります。「自分」というものの扉が閉じられているのです。

すると、最初に立てた計画に固執し、必ずその通りに行くようにするという態度は、その対象がどうであっても、結果的に狭いものにならざるを得ません。一日の過ごし方であっても、アウトラインの立て方であっても、人生の目標であっても、そうなのです。

最初に計画を立て、その後状況に合わせて何度も(何度でも)その計画を作り替えていく、というやり方は、「自分」を入れながらも、「自分」に固執しない手法です。

ある時点の自分の限界性を理解しながらも、しかし自分の意志を入れることを重視する。そういう態度だと言えるかもしれません。

この連載で紹介してきたノウハウは、その態度──Re:vision──を実践するための手法の一例です。他にもさまざまな分野で、この考え方を用いることができるでしょう。要点は極めて簡単なのです。

・先に立てた計画を絶対視しない。かといってそれを捨てることもしない
・理想と現実を、対立する軸で捉えることを止める
・自分で選ぶこと(選択肢を作ること)

しかし、この世界は(あるいは社会は)デフォルトで白紙な状態ではなく、一定の方向性(ベクトル)を持っているので、この通りにやるのはなかなか難しいかもしれません。でも大丈夫です。

Re:visionの根底には、「完全な何かがあるわけではなく、私たちは常に不完全な何かを渡り歩いている」という世界観があります。だから、Re:vision的態度を取ることにも、不完全さがつきまといます。完全にできなくてもいいのです。それは理想でしかありません。

現実的に取れる一歩から始めてみてください。そして、立ち止まるたびにvisionをRe:startさせてください。その道行きの中に、あなたの意志は刻まれていくことでしょう。

Enjoy!

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