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第九回:膜と現象としての自己

「自分」や「自由」についてもう一度考えましょう。

自分とは何か、という問いは昔から人類が向き合ってきた問いです。ここでその議論をさまざまに引っ張るべきなのかもしれませんが、浅学な私の手にはあまるので、単に私見だけを述べておきます。

自分とは、現象です。

私という現象。それが自分の中身なのです。

膜的イメージ

膜を思い浮かべてください。さまざまに大きさが変わる膜です。

だだっ広い空間に、球形の膜がぽつんと存在しています。その膜は不透明なので、その中に何が広がっているのかは判然としません。何かはあるだろうけれども、それが何なのかはハッキリしないのです。

では次に、その膜がどんどん小さくなっていく状況をイメージしてください。小さく小さくなっていき、最後にはほとんど存在しないのと同じになります。

もし、その膜に対して何かしら刺激がやってきても、その膜はそのままそれを通してしまうでしょう。なにせ、膜はあってもなくても同じな状況なのです。

これは、外界からの刺激に対して即座にレスポンスを返している状況に相当します。「間」がないのです。それは、感情的であり、システム1的であり、没個性的です。怒りをあおるような情報に触れたら、即座に怒り出し、それに沿った言動を取ってしまう状況です。刺激と行動が、つまりインプットとアウトプットが、そのまま繋がってしまっているのです。

膜が広がりすぎると

では逆に、その膜がどんどん拡大していき、最終的に空間と同サイズになったらどうでしょうか。すべてが膜の中な状況です。

こちらはあたかもハッピーに思えます。外界からの刺激にまったく影響されることなく、悠々自適に生活していけます。でも、本当にそうなのでしょうか。

その膜は空間の中に大きく広がっています。しかし、外界の存在がまったくないので、むしろ完璧に閉じているとも言えるのです。そこには他者性がまったくありません。

具体的に何があるのかはわかりませんが、膜の中にも何かがあります。その何かは、外界からの刺激にさらされることなく、少しずつ肥大化していきます。他者のことを気にかけず、共感もまったく置き去りにして、ただ「自己」の在りようを追求していくのです。まるでモンスターです。

ビオトープと膜

もちろん上記は極端な例であり、実際に膜がなくなったり、膜だけになったりすることはほとんどないでしょう。それでも、少し膜が小さくなったり、逆に大きくなりすぎたりすることは起こるかもしれません。

さて、この連載の冒頭で「ビオトープ的積読環境」を紹介したのを覚えておられるでしょうか。情報の濁流から距離を置いて、独自の生態系を築いていくための読書の考え方です。

このビオトープは、局所的な場所です。まったくないわけでもなく、それが全体に対して支配的でもない。むしろそれはニッチな在り方です。一方で、その二つの場所──ビオトープと非ビオトープ環境──は断絶しているわけではありません。水、空気、生物たちの行き来は可能です。

つまり、ビオトープと非ビオトープ環境は、概念的境界線を持ちますが、壁で仕切られているわけではありません。そこには行き来可能な穴が空いています。つまり、膜のようなものです。

間という存在

私たちは外界を無視することはできませんし、すべきでもないでしょう。一方で、外界からの刺激に影響されすぎるのも考えものです。それは「私」の喪失であると共に、常に荒波にさらされているような不安定さをもたらし、加えて現代であればマーケティングの影響を受けすぎます(これらは一つの現象を別の側面から見ているだけかもしれません)。

「私」とは現象であり、膜を通して──あるいは、その「間」──で起こる何かです。

豊かな読書経験は、その現象をさらに豊かにしていくものだと言えます。

(つづく)

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