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『独学大全』とは何だったのか / 人文的実用書に向けて

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2021/07/03 第560号

○「はじめに」

ポッドキャスト&YouTube Live配信されております。

◇BC015『実力も運のうち 能力主義は正義か?』 - by 倉下忠憲@rashita2 - ブックカタリスト

◇第七十五回:Tak.さんとノウハウを本で伝える難しさについて by うちあわせCast | A podcast on Anchor

◇ラジオ第107回の公開生収録「倉下さんの新刊についてアレコレ尋ねちゃうデジタルノート放談会」 - YouTube

ブックカタリストでは、最近話題の本を取り上げました。うちあわせCastは7月からのこのメルマガの連載に関わる話をしております。

あと、新刊の宣伝としてBeckさんの番組にお邪魔しました。今後はこういうゲスト参加も増えてくるかと思います。

〜〜〜電子書籍〜〜〜

少し前、「紙の本のように読める電子書籍端末が開発中」という記事の見出しを見かけました。たしかに電子書籍が紙の本のように読めたら嬉しいわけですが、そもそも紙の本のように読みたければ紙の本を読めばよいとも言えるわけで、なんとなく釈然としないものが残ります。

どうせなら、紙の本に近づけるのではなく「電子書籍ならではの読書体験」が十全に発揮できる端末を開発して欲しいですし、そこには「手軽に本文をコピペできる」機能がついていて欲しいものです。

ITがここまで発達する前に夢見られていた電子書籍の利便性は、プラットフォームの囲い込みで台無しになりつつあることは間違いありません。なんだったら、一番使い勝手が良いのが、OCRを通した「自炊」の電子書籍だったりするくらいです。

Amazon/Kindle以外のストアであれば、多少融通の利く電子書籍(ファイル)を入手できるところもありますが、やはり一番の大手の印象が、全体の印象を形成してしまう点は避けがたいので、Amazon/Kindleには頑張ってもらいたいと願っております。

〜〜〜英語が読める力〜〜〜

Google翻訳やDeepLを使えば、英語を読めなくても英語の文章の大意は掴めます。これは素晴らしいことです。

一方で、その前段階の処理もあります。たとえば、Googleの検索結果で出てたページがすべて英語だった場合、そこで表示される記事のどれを読むのかを判断しなければなりません。その際に、タイトルがそのまま読めるか読めないかで作業全体の効率は大きく変わってきます。

さらに言えば、そのようにタイトルを「読む」という場合でも、単語の意味がわかるレベルの読解力と、そのタイトルに込められたニュアンスが理解できるレベルの読解力でも違いがあるでしょう。

日本語ならば、

「誰でもすぐさまEvernoteがマスターできる10の方法」
「私のEvernoteの10の使い方」

という二つのタイトルが並んでいると、なんとなくその記事がどういう方向性を持っているのかが理解できると思います。その理解が、どちらを読みたいかを判断する手助けをしてくれるはずです。一方で、「Evernote」と「方法」や「使い方」くらいしか単語の意味がわからなければ、そうしたニュアンスを捉まえることはできないでしょう。

といったことを考えると、やはり機械翻訳があろうとも、最低限の英語を「読む力」があった方がよろしいだろうという結論になります。機械の力を使うことも大切ですが、使える知識を自分の脳に増やしていくこともやっぱり欠かせません。

〜〜〜お魚ちらちら状態〜〜〜

最近、次の本の企画案について考えています。で、少し前までは漠然としているというか、おおむねこういう方向ではないか、あたりの解像度で考えていたのですが、数日前から「これだ!」というコンセプトが固まりはじめてきました。

そうなると面白いものです。そのコンセプトに使えそうなアイデアがいくつも浮かんでくるようになったのです。しかも、そのアイデアの周辺にも何か面白そうなものがあるぞ、という感覚もあります。アイデアの蠢きを感じるのです。

こうした状態は、『ワープロ作文技術』の中で木村泉さんが書いておられる「お魚ちらちら状態」だと言えるのでしょう。全貌はまだ捉まえていないけれども、泳ぎ回っている魚の姿や、あるいはときどき跳ねる波は感じられるのです。あとはうまくそれを引っぱり上げることさえできれば、コンセプトはどんどんと肉付けされていくでしょう。

そうした期待感が感じられるのは、とてもウキウキするものです。まあ、実際に書きはじめたら、いろいろな困難にぶつかるとは思うのですが。

〜〜〜著者としてまっすぐに〜〜〜

上記に関係することですが、「お魚ちらちら状態」に至ったきっかけがあります。それは「企画を置きにいく」ことをやめたことです。

ちなみに、ここでいう「置きにいく」とは、"チャレンジをせず無難にまとめる"くらいの意味です。

◇「置きに行く(おきにいく)」の意味や使い方 Weblio辞書

それまでは、「なんとなく、こういうコンセプトが求められているのだろうな」という私なりの想定があり、それに合わせるように企画案を考えていたのですが、その方向ではどうしてもうまくまとめきることができずに、「ええい、もういい」と思ってストレートに自分の考えを書き出すと、するするとそれがまとまり、それに付随してアイデアも出てくるようになりました。素晴らしいことです。

その経験から確認したのは、著者と編集者という役割分担がある以上、あまり忖度するのはよろしくないぞ、ということです。著者は著者なりに自分の書きたいことを提示し、それを編集者が整える。そういう分業をするからこそ、むしろそれぞれの立場が活きてきます。片方がもう片方に忖度するならば、極論すればその片方は別にいなくてもいいわけで、それってあまり良い仕事のやり方とは言えないでしょう。

当然、忖度しなくなると異なる意見が生まれ、それがときに引っ張り合いを生み出す可能性があるわけですが、そうした綱引きの中でしか生まれてこないコンテンツもあるのではないかと思います。

もちろん、この考え方が著者業一般に通じるかどうかはわかりませんが、私としては今後も「著者として全力の企画」を提案する形で進めていきたいと考えております。

〜〜〜コードが読める力〜〜〜

たまたま調べ物のためにググッていたら、結城浩さんのmakeappに遭遇しました。

◇makeapp - スクリプトをMacのアプリケーションにする
https://gist.github.com/hyuki/b8e75e9fba04a390da9caa59ab38d86d

スクリプトをMacのアプリケーションにするためのスクリプトです(ややこしい)。で、ちらっとコードを覗いたら、冒頭の数行で ARGV という配列を扱っている処理があり、それを見た瞬間に「ああ、コマンドライン引数をここで処理しているのだな」とわかりました。これが実に不思議な体験だったのです。

このスクリプトは以前も見たことがあったのですが、そのときには上のような「わかり」は発生しませんでした。たぶん二ヶ月前に見たとしても同じだったでしょう。たまたまここ一ヶ月くらいでPythonでコマンドライン引数を処理することがあり、実際に自分でもそのコードを書いていたので、似たコードを見たときに「わかり」が発生したのです。

簡単に言えば、(以前に比べて)コードが読めるようになったわけですが、それは裏側では自分がコードを書けるようになったことも意味しています。あるいは実際に書いた経験が身になっている、という言い方をしてもよいでしょう。

もちろん、コードが読めるといっても上のコードを見て、逐一そこで何が行われているのかがわかるようになったけではありません。「冒頭部分で、コマンドライン引数が与えられていた場合の処理をしているのだ」という輪郭線がわかるようになっただけです。言い換えれば、その部分をパターンとして認識できるようになったということです。そしてそれが「学ぶ」ということの一番よくある形でもあるでしょう。

お手本を見る→実際に自分でいくつか書いてみる→他の人のコードを見る→パターンが見えてくる

こうしたことを積み重ねることで、少しずつ認識できるものが増え、その結果自分で使えるものも増えていきます。逆に言えば、こうしたパターンの獲得は少しずつ進めていくしかありません。一気に「わかる」ようにはならないのです。

なかなか地味な話ではありますが、それでも「あっ、これあのパターンだ」とわかるのはとても嬉しいものです。地味にでも続ける価値があると感じます。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない問いかけですので、頭のウォーミングアップ代わりにでも考えてみてください。

Q. これまで読んだ実用書の中で「好きな本」は何かありますか。その本のどんなところが好きですか。

では、メルマガ本編をスタートしましょう。7月は「人文的実用書に向けて」というテーマでお送りします。普段の敬体ではなく、常態で書いていきますのであしからず。

また、第一回分は「新刊校了おめでとう記念」として全文無料公開します。もし気に入ってくだされば、ご購読もご検討くださいませ。

*本号のepubファイルは以下からダウンロードできます。

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○「『独学大全』とは何だったのか 人文的実用書に向けて」

これから四回にわたって実用書・ノウハウ書について検討していく。その書かれ方、在り方をバージョンアップさせるには何が必要か、そもそもバージョンアップが必要なのかをつぶさに吟味する。

そのような検討は、一つには書き手としての私の興味が関係している。これまで私は実用的な物事を読者に伝えるための本を書いてきたし、今後もどういう形であれそうした本を書いていくであろう。そのような本が、「どのように書かれるべきか」を検討することは職業的人生において大きな意味を持つ。

ただし関心は、書き手方面ばかりだけではない。読み手としても関心を持っている。そもそも実用書やノウハウ書を読むのが好きだったからこそ、自分でもそれを書いているようなところがある。歴史的な読書体験によって憧れは醸成され、それがポラリスとして頭上に輝き続けるのである。

しかし、近年の実用書・ノウハウ書には心躍る読書経験が乏しい。まったくないというわけではないが、面白い本があちらからもこちらからも出ていて困る、ということはない。それは積読観点から言えば好ましいことなのかもしれないが、この分野そのものの衰退を予感される厳しい事態でもある。

簡単に言えば、「もっと面白い実用書が読みたい!」のである。そのために、実用書についての議論を提起していくことは、意味があるように思う。たとえ小石の破片ほどでも、そこに波紋が(あるいはさざ波が)起こるならば、何かが変わるかもしれない。

ところで、先ほどから「実用書」と「ノウハウ書」という用語を使っている。これらの関係はどうなっているのだろうか。他にも「ハウトゥー本」という言い方もあり、これも混乱をさそう。

英語で表記し直せば、ノウハウはknow-howであり手続き的知識全般を指す。一方ハウトゥーはhow toであり「〜の方法」を意味する。この二つにはもちろん違いがあるのだろうが、ここでは特に区別しないこととする。どちらのタイプの本も、何かしらの「方法」に関する知識を提示することを目標にした書籍だとする。

その上で、そうした書籍は「実用書」に位置づけられる。つまり、階層構造で示せば以下のようになる。

実用書
・ノウハウ本/ハウトゥー本
・hogeA
・hogeB

ようは、本連載では「実用書」はノウハウ本/ハウトゥー本の一つ上の階層に位置づける。逆に言えば、「実用書」の在り方は必ずしもノウハウ本/ハウトゥー本という形をとるとは限らない、という視点を取る。こうした視点の取り方は、おそらく後々効いてくるだろうが、ここでは先回りすることはせず、あくまで前置きとして定義を確認しておくだけにしておこう。

まとめると、本連載は「実用書」について徹底的に考えていく連載である。その目的は「実用書」の解体にあるのではなく、むしろその新しい再生にある。こんなに面白いジャンルを廃れさせるわけにはいかない。だから、小さく考えていくことにしよう。一歩一歩、歩みを進めていくことにしよう。その先に何が待っているのかはわからないが、一考してみるだけの価値はあるだろう。

ではまず、現在でも大ヒットを続ける『独学大全』の分析からスタートする。この『独学大全』こそが本連載の考察を始めるきっかけになった本であり、一歩目を飾るにふさわしい内容を備えた本でもあるからだ。この本を分析することで、次なる課題がいろいと浮かび上がってくるはずである。

それでは始めるとしよう。しばしの間、お付き合い頂きたい。

■『独学大全』とは何か

さて『独学大全』(注1)という本は、一体何だったのだろうか。

もちろんベストセラーであり、出版不況が囁かれる中で──しかも競争相手が極めて多いビジネス書と呼ばれるカテゴリーにおいて──異例のヒットを飛ばしている本であることは理解している。今確認できる情報では、紙版と電子書籍版を合わせて20万部を突破しているらしい。税込みで3000円を超えるその価格は、一般的なビジネス書が1500円前後なことを考えれば、出版部数のインパクトを倍にしているとも言える。

また、本書の著者が「読書猿」という一風変わった名前の、それでいてインターネットでは古参として有名な人間であることも承知している。彼の前二作も読者に好意的に受け止められ、かなりのヒットになったことも記憶に新しい。ある意味ではきわめて無名かつ謎な人間であり、別の意味ではきわめて存在感のある人間が著者なのである。

そうした理解を踏まえて、もう一度問いたいのだ。『独学大全』とは何だったのだろうか、と。

■その特徴

まっさきに目につくのは、その分厚さだろう。なんと788ページ。最近では「鈍器本」という名誉なんだか不名誉なんだかわからない通称も生まれ、そうした分厚い本のグルーピングも発生している。

たしかに分厚さは一つの特徴である。特に紙の本ではそれは視覚的なインパクトを生み出す。書店において、面陳列(表紙を前に向けての陳列)よりも、棚差しの方が存在感がある本はかなり珍しい。特に「やさしく・わかりやすく・手短に」読める本が好まれるとされているビジネス書カテゴリーでは、本書は余計に目立つ。

そう。目立つことは大切だ。

本は読んでもらうためのものだが、読んでもらうためには買ってもらう必要があって、買ってもらうためには知ってもらう必要がある。「買う」を「図書館で借りる」に置き換えても、全体の構図は変わらない。まず「知ってもらうこと」。それが欠かせない。

年間の出版点数がわけがわからないくらいに膨れ上がっている昨今では、その「知ってもらうこと」が相当に難しい。人気ジャンルの本を出せばあっという間に類書の渦に巻き込まれるし、類書がない本を出せば今度は孤立して読み手を捉まえられなくなる。ジレンマだ。

そこで類書を出して、より奇抜な主張をすることになる。共通のテーマでありながら、より高い効果を謳う、より極端な効能を謳う。そのようにして目立とうとする戦略が採用される。差異化の競争だ。

あるいは別の戦略もある。すでに著名な人間を捉まえてそれを著者に据えるのだ。著者が「目立っている」のだから、その本も目立つことになる。だから内容自体は奇抜でなくてもよい。ごく普通の、ありきたりな、あたりさわりのない内容で構わない。むしろその方が──トラブルの可能性などを考えたときに──望ましい、と判断されることすらありうる。

率直に言って、ビジネス書という界隈で展開されてきた実用書は、上記二つの「戦略」の結果として、きわめて退屈なものになってしまったと私は見ている。

片方では、類書の中でより目立とうとするために主張が極端になった結果、現実と(リアルな状況と)あまりにも乖離した「ノウハウ」が提唱されており、もう片方では、著名人が自分のブランドイメージを棄損しない程度の「方法」を開示するに留まっている、という状況だ。

どちらも、ビジネス的観点からすると「安全性」を重視していると言える。類書には「前例」のデータがあるので、斬新な企画よりも安全性が高いと考えられるし、著名人を著者に採用すれば、事前にある程度の売上げが見込めるという点でこれまた安全性が高いと言える。このような「リスクマネジメント」は、ビジネス(ないしは経営)の観点から言って必要不可欠なものではあろう。

しかし、そもそも出版という行為自体が博打的な要素を含んでいる点は見逃せない。100%博打とまでは言わないが、100%博打ではないとも言えない。むしろ、博打成分の方が多く含まれていると言ってよいだろう。なにせ出版活動とは(あるいは本を書くこととは)、これまで誰も書いていなかった本を世に出す行為だからだ。あるいはそれが「世に問う」という表現をされることからもわかる。答えがどう返ってくるかわからないからこそ、「問う」のである。それは一種の博打であると言ってよい。

麻雀という賭博において(あるいは健全な競技麻雀であっても)、安全性を重視するあまり逃げ回っている打ち手はまず勝つことができない。それと同じで、博打をいっさい回避しているところに、イノベーションは起こり得ない。いや、イノベーションなどとたいそうな言葉を持ち出さなくてもよい。「これまでにないヒット作」(ドラッカーが言うところの顧客の創造)は作れない、というだけの話だ。

全体のリスクマネジメントは考慮しつつも、どこかで「安全性」からはみ出さなければいずれはどん詰まりになってしまう。それは「コンフォートゾーンに留まっている限り成長はない」という言説にとてもよく似ている。学びは、自らの愚かしさを自覚するところからしかはじまらない。筋トレも、筋肉に負荷をかけないと一切効果が上がらない。ある種の「苦痛」を経ることでしか進めない道行きがあるのである。それは出版活動においても言えるだろう。

その意味で、『独学大全』という本の全体的な設計自体が、博打的であったと言える。分厚さも前例がなければ、本の内容自体も(もっと言えばそこに含まれているメッセージも)前例がない。唯一著者は『アイデア大全』『問題解決大全』でヒットを生み出しているので、その意味で「安全性」はあるが、しかしその安全性の強度はこの分厚さでこの値段の本を発売するリスクを担保してくれるものでは到底ない。やはり博打なのである。

まず、この点を押さえておく必要があるだろう。『独学大全』はまずその分厚さに目がいくのだが、そもそもとしてそれは──ビジネス書の棚において──前例がなかった、という点こそが「目立つ」要因になっている。よって、鈍器本なる類書が増えてくれば、単に分厚いだけでは目立たなくなるだろう。博打性が薄まっているのだから、当然だと言える。

とは言え現状では、この分厚さは圧倒的に目立つ要素(差別化要素)になっていることは間違いない。そして、当然その分厚さは、その本の内容とも関係している。では、その内容とは何だろうか。

■コンヴァージェンスな内容

上記で確認したように、単に分厚い本を作ればよい、というわけにはいかない。似たような本が増えてくれば、分厚さだけでは目立たなくなる。そして実際、そういう傾向は徐々に生まれている(名前を挙げることはしない)。

正直に言って、分厚い本を作ること自体は難しくない。たっぷりのマージンをつけ、文章を水増しし、余分な情報を添加していけば、本は分厚くなっていく。しかし、もっとコンパクトに作れるであろう本が分厚くなっていても、損した気分にしかならないだろう。

一方で、『独学大全』は3000円もするが、読んでみると「これが3000円でいいんですか!?」というお得感すら感じられる密度になっている。水増し要素はどこにもない。言い換えれば、この分厚さを要求するくらいに著者の知識が盛り込まれている点に、この本の特異さがある。

そうした知識がどこから来たのかと言えば、ウィキペディアからのコピペではない。著者が積み重ねてきた(広い意味での)研究結果からである。その意味で、本書は人文書的な要素──研究者が、自分の研究を広く発表するための本という要素──を持つといえる。

では、著者の書きたいことを目一杯盛り込めば、その本がヒットするのかといえば、もちろんノーであろう。もしそんな単純な話なら、人文書の棚に並ぶ本の多くがヒットしていなくてはおかしい。しかし、そうした本の売り上げは、ひいき目に見たとしてもビジネス書の「ヒット」の基準には及ばないだろう。

『独学大全』において注目すべきは、それほど重厚に知識が詰め込まれていたとしても、内容的な近寄りがたさをあまり感じない点にある。むしろ、読者に手に取ってもらおう、読んでもらおうという工夫が詰め込まれている。無知くんとおやじさんの対話しかり、分厚いながらもパラパラと読んでいける構成しかり、読者を厳しさと優しさの両方で包み込むその姿勢しかり。どれもこれも単純には書かれてはいない。配慮と工夫が張り巡らされている。

そのような配慮と工夫は、一体なんだろうか。私はそれをビジネス書的配慮と呼んでみたい。つまり、専門的知識を持っている読者に向けてではなく、ビジネスの現場で関わる広い人々に向けて有用な知識を伝えていこう、という営みの中で磨かれてきた配慮や工夫ということだ。

もちろん、ビジネスのプレイヤーに向けて書かれているからこそ「ビジネス書」と呼びうるのであって、それをより広い対象に向けるならば、これは「実用書」と呼べるだろう。つまりビジネス書的配慮は、実用書的配慮と呼び変えても差し支えない。ただし、「実用的」な知識が切実に必要とされ、投資もやむなしと判断されるのはビジネスの現場であることが多いことは間違いない。お金が動くところに、人々の知識や工夫が集まりやすいことを考えれば、ビジネス書的配慮と呼ぶこともそう間違いとも言えないだろう。

どちらの呼び方を採用するにせよ、一つ言えるのは、小難しい教養を詰め込んでボリュームたっぷりの「ビジネス書」を作ったとしても、上記のような工夫が欠けていては、『独学大全』の二番煎じにすらならないだろう、ということだ。そのような本の書き方・作り方は、「人文書」と「ビジネス書」のコンヴァージェントにはなっていない。単に「それっぽい」だけである。

人文書のように強い熱量とそこから生まれる知識があり、ビジネス書・実用書のように読者に読んでもらおうとする姿勢と工夫がある。その両者が重なるところに『独学大全』は屹立しているのではないだろうか。

■潜在的な顧客層

では、なんとか熱量ある書き手を見つけ、工夫を詰め込んで本を作れば『独学大全』に並べるかというと、もちろんそんな甘い話ではないだろう。そもそも巨大なヒットというのは、地震と同じで後からメカニズムを分析することはできても、完璧な予知は不可能に近い。あまりにも微細な要素が、あまりにも大きな変化につながってしまうからだ。

そのあたりの話は、『歴史は「べき乗則」で動く』(注2)や『経済は「予想外のつながり」で動く』(注3)あたりが面白いので詳しくはそちらに譲るとして、ともかくまともに考えれば、必ずヒットを生み出すような「方程式」はこの世には存在しないことになる。
*それが存在すると吹聴する人は、わざとやっているかまともに考えたことがないかのどちらかであり、つまりは相手にする必要はないということになる。

だからといって、すべてのヒットがたまたまの産物であると豪語するのはずいぶん短絡的である。たとえば、日本は他の国よりも統計的に地震が多いと言えるし、深刻な地震が起こりやすい場所とそうでない場所は区分されている。それと同じで、ヒットが起こりやすいものとそうでないものを区分することはできるだろう。

では、『独学大全』のヒットを支えた地層とは一体何だったのか。単純に考えれば、「読書猿のファン」であろう。ほとんど間違いなく、「ファン」と呼べる人たちは存在し、そうした人たちが積極的に本を買ったことは疑いようがない(なぜなら私もそのファンの一人だからである)。

一方で、そのファンだけで20万部という出版部数を支えられるかというとさすがにそれは話を盛りすぎであろう。「読書猿のファン」はたしかにその地層の一部を成しているが、それが全体ではない。むしろ話は逆なのだ。

『独学大全』という名前が示している通り、この本の対象読者は「独学者」である。今独学を実践している人や、これからそれを志そうとする潜在的な独学者──つまり、何かしらを学ぼうという気持ちを持っている人間すべてが対象読者なのである。

そのような独学者・独学志向者がまずたくさんおり、それらの中で必要があってWebを検索したときに読書猿氏のブログと出会い、そこでファンになった人間がたちがいくらかいる。そんな構図である。「読書猿のファン」が地層の一部である、とはその構図を意味している。地層全体は、「学ぶ」ことに憧れ、それを実践してきた人たちすべてだ。

潜在的な顧客層はたしかにそこにあって、しかしそれは可視化されていなかった。もっと言えば見過ごされていた。もし見過ごされていなければ、『独学大全』がここまでのヒットを飛ばすことはなかっただろう。読み手はたしかに飢えていたのだ。こういう情報が必要だったと欲していたのだ。そのことは逆に、ビジネス書というジャンルがまったくこうした情報を提供できていなかったことも意味する。

とは言え、ここでその話に深入りするのは止めておこう。この話は非常に大切なので、後ほど詳しく検討することにして、今は話を前に進めることにする。

■情報の伝播率

潜在的な対象読者(顧客層)が大きく存在するからといって、そこに向けに本を書いたらすぐさまヒットすると考えるのもあまりに能天気だろう。地震は揺れが伝わることによって広がっていくわけだが、ヒットもまたその商品の情報が広く伝わっていくことによって起きる。むしろ、情報の伝播がまったく起こらないような状況ではビッグなヒットはまず起きないと言ってよい。

たとえば、ある人が本を買ってそれを読み、「ああ面白かった」と思ってそれで終わったとする。話はそこで終わりを迎える。終幕だ。

一方で、本を読んだ後に、その本について誰かに話したとしたらどうなるだろうか。単に読んだという情報を伝えるのでも、面白かったとお勧めするのでも、このノウハウが役に立ったと紹介するのでもよい。そうしたアクションが起きたのならば、閉じかけた幕は再びするすると上がっていき、舞台は華々しく動き始める。

数理モデルっぽく記述すればこうなる。ある人がその本を読んだとき、80%の確率でその情報を他の人に伝えるとして、そうした情報の伝達で50%の確率で本の購入が促されるとしたら、そうした買った人もさらに80%の確率で他の人にその情報を伝えることになり、さらにその情報に触れた人が……と、情報が伝播していく様子が記述できる。

もちろん、その記述は事前には行えない。言い換えれば、予測的に記述することはできない。なぜなら、人はネットワークを形成し、それぞれから入ってくる情報によってその行動を変えると想定できるからだ。

たとえば、10人の知り合いがいて、そのうち3人が言及しているなら興味を持つが、2人しか言及していないならスルーする、という行動パターンを想定するだけで、話は極めて複雑になる。そのネットワークにおいて、たまたま最初に読んだ人が2人なのか3人なのかによって、情報波及の形がまったく変わってくるからである。
*あまりにも微細な要素が、あまりにも大きな変化につながることの例。

だからこそ、出版はビジネス的に博打なのである。想定読者の層を計算できたとしても、その本が読み手にどれくらいのインパクトを与え、どれだけの情報行動を促すのかは、事前にシミュレートができない。本を書いてみないと、そしてそれを読んでもらわないとわからない。もっと言えば、自分たちの想定する施策とはまったく関係なく「たまたま」手に取る人たちもヒットには影響してくる。そんな複雑なもの制御下におけると考えること自体が無謀であろう。

もちろん、たくさんお金を積んでプロモーションを行えば、露出は増える。露出が増えれば「たまたま」手に取る人も増えるだろうし、それがヒットの可能性を上げることもある。なんならインフルエンサーと組んだり、「口コミ」を買ったりすることで、プロモーション感を出さずにそれを行うことすら可能である。そのような底上げによって、売り上げの規模を一定レベルまで上げることは不可能ではないだろう。しかし、巨大なヒットは確約されない。たとえばその本が、読んだ人の0%が他の人に情報を伝達する、という内容の場合、規模の拡大は一瞬で終わる。プロモーションのお金が尽きた段階で終わってしまう。

無限にお金をかけられるならばともかくとして、そうでないならば、本自体が読んだ人を動かす力を有していない限り、巨大な規模のヒットにはまずつながらない。逆に、本自体に情報発信を促す力があるならば、(あたかも自動的であるかのように)本の話題は広がっていく。

そのネットワーク的伝播において、ノードとなる人たちはさまざまな役割を持つ。巨大なメディアのプロデューサーかもしれないし、各界の著名人かもしれない。全国にある書店の店員さんや、面倒見の良い職場の上司ということもありえる。もちろん、読書好きの人たちは面白い本についての話題を盛んにやり取りしている。

そういうネットワーク的情報交流の中で、「この本いいですよ」と少しでも言ってもらえる内容を有すること。それが、ヒットに貢献する(あるいはその可能性を上昇させる)重要な要素である。

とは言え、これは「内容さえよければ、プロモーションは不要」という話ではない。仮にその本が口コミ発生率100%であっても、一番最初は非口コミの形で読んでもらわなければならない。つまり、本について知ってもらわなければならない。また、口コミ発生率100%の本などそうそうないだろうから、「たまたま」読んでくれる人の存在が、より広い人にリーチする上では欠かせない。本が持つ広がりの可能性をより大きく伸ばしていくために、プロモーションは欠かせない活動だといえる。

結局、ごくあたり前の話に落ち着く。内容も重要だし、プロモーションも重要。むしろ、その二つががっちり噛み合うとき、ヒットの可能性は上昇するのだと考えられる。

■次なる疑問

というところまで考えて、「じゃあ、どういう本だったら口コミを発生させられるのか」という疑問が当然のように湧いてくる。言い換えれば、その本のことを誰かに伝えたくなるような本とは、どんな本なのか、という疑問である。

もちろん、この疑問は難問である。そんなことがはっきりわかっていたら出版社はもっと楽に商売ができているだろう。だからといって、考えを手放すのは省エネすぎる。

そこで次回は、本の内容について検討していこう。キーワードは「贈与」になる。そこで今回の途中に出てきた「ビジネス書が置き去りにしてきた読者層」の話も出てくるはずだ。

(次回につづく)

注1:読書猿『独学大全――絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法』ダイヤモンド社、2020

注2:マーク・ブキャナン著、水谷淳訳『歴史は「べき乗則」で動く――種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)』早川書房、2009

注3:ポール・オームロッド著、 望月衛訳 『経済は「予想外のつながり」で動く――「ネットワーク理論」で読みとく予測不可能な世界のしくみ』ダイヤモンド社、2015

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○「おわりに」

お疲れ様でした。本編は以上です。

新刊が校了したので、あとは発売を待つばかりです。もちろん、プロモーション活動も行っていくのでお楽しみに。

それでは、来週またお目にかかれるのを楽しみにしております。

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