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人の脳とノート──『すべてはノートからはじまる』 #02

なぜ、ノートを書くことが必要なのか。情報が多すぎる現代において、私たちはノート(記録)とどのように付き合えばよいのか。身近でありながらも、現代的な困難を内包するその問題を解き明かす『すべてはノートからはじまる あなたの人生をひらく記録術』。その一部を公開します。

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第1章 ノートと僕たち 人類を生みだしたテクノロジー(01)

〝過去は信頼できる記録ではない。それは復元物であり、神話に近い場合もある〟
――『あなたの脳のはなし』(デイヴィッド・イーグルマン)

〝人間の状況の不条理に対するもっとも効果的な解毒剤は、芸術よりもむしろユーモアであると私は確信している〟
――『脳のなかの幽霊』(V・S・ラマチャンドラン、サンドラ・ブレイクスリー)

複雑な脳のダンス

ノートの話をする前に、脳の話をしましょう。私たちの灰色の脳についてです。

私たちの脳は複雑な器官です。単一の機能で見れば、脳より優れたコンピュータはいくらでも見つかりますが、脳の機能全体を模倣できるコンピュータはどこにもありません。もしそれを作れたとしても、脳と同じサイズで実現するのは不可能でしょう。進歩した現代の科学から見ても、脳はきわめて複雑な器官と言えます。

その複雑な脳の働きを理解するために、二項対立のモデルがよく用いられます。右脳と左脳、理系と文系、理性と感情、論理と直感、システム1とシステム2、システムIとシステムR。こうした分類の正確さはさておき、たしかに脳には異なる二つの部分があるようです。一つは進化的に古い部分で、直感・感情・本能と呼ばれる機能を担当し、非常にスピーディーに反応を返します。もう一つは、論理・理性・分析、そして言語を担当し、前者に比べるとゆっくりとした反応を返します。後者は大脳の表面を占める大脳新皮質が担っているとされ、ほ乳類は他の動物に比べてこの領域が大きく、人間はその中でも格段に大きいようです。つまり、人間が「知性」と呼ぶ機能は、進化的に新しい領域で担われています。

とは言え、この新しい領域だけが人間の特徴ではありません。むしろ人間の特徴とは、進化的に古い部分と新しい部分とが一つのシステム内に共存している点にあります。その二つがときに牽制し、ときに協調しながら一つのシステムを紡ぎ出している点が特異なのです。その複雑なダンスのステップこそが、人間そのものの複雑さにつながっています。

考えてもみてください。まったく本能的な動物はきわめてシンプルでしょう。空腹なら即座に餌を食べる。攻撃されたら反撃する。明日の天気を予想するよりもよほど簡単に行動を予測できます。一方で、まったく合理的な存在も同様にシンプルです。当人にとって非合理的なことは絶対にやらないのですから、条件の提示次第で相手を思うように動かせます。どちらも構造的に単純であることは共通しています。

しかしながら、人間はそんな風にはできていません。おなかが空いたらご飯を食べますが、「いやでも最近食べ過ぎだしな。今はやめておこう」と決めることもあります。そうして決めたにもかかわらず、やっぱり食べてしまうこともあります。非常に複雑なのです。こうした複雑性が持つ面白みや予測不能性を考慮に入れないと、「スーパーコンピュータは人間より計算が速いから優れている」なんて結論が出てきてしまいます。それは、きわめて視野の狭い考えだと言わざるをえません。二つの領域の複雑なダンスこそが、人間の面白さであり、複雑さであり、際立った知性の源泉なのです。計算することではなく、逡巡することが知性の表れなのです。

人類の偏った歴史の歩み

そのような複雑な人間が、長い時間をかけて文明を築いてきました。狩りをし、土器を作り、集落を作り、家畜を囲い、農業を営み、都市を作り、朝廷や王国を作り、工業が起こり、産業が発展し、やがてインターネットにまで至る文明の道のりを歩んできたわけです。また、文明と並行して走る文化の豊かさも百科事典や博物館を覗いてみれば一目瞭然でしょう。現代では、インターネットでそうしたさまざまな文化を目にすることも可能です。素晴らしき情報社会ができ上がっているのです。

面白いのは、そうした長い人類の歴史を一つの年表にすると、記述の密度に非常な偏りが出てくる点です。仮に人類の出発点を七千万年前とすると、文明化や近代化が進んだ紀元前からこちらの二千年はほんの一瞬(約0.002857%)でしかありません。さらにパソコンやインターネットによる情報化が進んだのはそのうちのせいぜい五十年ほどのことです。その短い期間に人類は爆発的に発展し、社会を大きく変化させてきました。人類の長い歩みにおいて、文明化・近代化・情報化などの変化は、ごく最近のほとんど瞬きとも言える間に生じたわけです。これは極めて急激な変化と言えるでしょう。

そうした急激な変化のせいか、生物としての人間と、それが生きる社会やシステムとのズレが大きくなり、狩猟時代や農耕時代では問題にならなかったようなことが問題になりつつあります。ダンスのステップが崩れはじめているのです。

たとえば、近代化と共に寿命が延び、また情報化が進んだことで、一生のうちに扱わなければならない情報の量が爆発的に増えています。人間の長期的な記憶だけで対応できるものではありません。仮に脳に情報が保持されていたとしても、それをうまく引きだすことができないのです。人間は連想的に何かを思い出すのは得意でも、ピンポイントで狙った情報を「思い出す」のは不得意なのです。

また、一秒ごとに高速で流れ込んでくる情報を適切に判断し、処理していく能力も人間は持ち合わせていません。人間が一度に注意を向けられる量は限られており、たとえばそれはマジックナンバー(7プラスマイナス2)という上限が研究されています。

上限を持つのは短期的に向ける注意だけではありません。私たちが友好的な関係を構築し、維持できる相手は百五十人程度が限界であるというダンバー数という概念があります。小さな集落での農耕的生活であればそれだけあれば十分だったのかもしれませんが、インターネットやSNSがあたり前の時代では、その数では到底足りないことになります。私たちの親近感は脳的に不足しているのです。

さらに、人間の直感は即時的な反応を返す上で「パターン」を利用しているので、既知のものには強い反面、未知のものには弱い性質を持ちます。新しいことがたまにしか起こらない環境であれば、直感に頼ることは良い結果をもたらすでしょうが、新しいものが次々と高速で生じる状態ではうまく対応できません。結果、先入観やステレオタイプ(これらもパターンの一種です)にひどく引きずられることになってしまいます。複雑な事象を、自分が知っている既知の事柄の一種として単純化して処理してしまうのです。

総じて言えば、社会が発展し情報化が進んだことで、それまでの脳のダンスのステップがマッチしなくなっています。むしろ情報の流れの高速化は、素早い反応を要求し、本来必要であるはずのゆっくりな反応を抑制してしまうので余計にズレが大きくなります。力の強い方のリードが行き過ぎて、弱い方はステップを踏むことがままならず、振り回されている格好なのです。

とはいえ、その対策を私たちの脳の進化に期待することはできません。なぜなら、スピードが違い過ぎるからです。数世代をかけて変化していく遺伝子に比べると、情報技術の進歩は目まぐるし過ぎるほどです。脳の進化を待っている間に、二周も三周も環境の変化は先走ります。きっといたちごっこにすらならないでしょう。

かといって、指をくわえてその状況を甘受しなければならないわけでもありません。ただ受け身に暮らすだけが人間ではなく、状況に対応し、必要な対策をとるのが人類の人類たる所以です。そのような所作が現代までの文明を築いてきました。同じように、私たち個人も状況に対応していけます。具体的には、ノートの力を借りるのです。

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目次

はじめに ノートをめぐる冒険
第一章 ノートと僕たち 人類を生みだしたテクノロジー
第二章 はじめるために書く 意志と決断のノート
第三章 進めるために書く 管理のノート
第四章 考えるために書く 思考のノート
第五章 読むために書く 読書のノート
第六章 伝えるために書く 共有のノート
第七章 未来のために書く ビジョンのノート
補 章 今日からノートをはじめるためのアドバイス
おわりに 人生をノートと共に


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