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最終回:情報社会に抗う術としての「間を置くこと」

すでに心静かに生きている人には、別段アドバイスなど必要ないでしょう。しかし、現代の情報刺激社会ではなかなかそうもうまくいきません。

私たちは情報と付き合う術もろくに知らないまま、情報の濁流にいきなり突き落とされた格好です。バタバタ溺れたり、うまく呼吸ができなくなっても仕方がないでしょう。これは大げさな話ではなく、情報との接し方によって心の健康が損なわれてしまうことは十分にありえます。

私たちは、知的生産的に情報を活用する術を知る前に、教養的に自分を高めていく術(すべ)を知る前に、まず最低限の健康を、つまり自分という系の秩序を維持するための術を知る必要があります。

それがこの連載で長らく書いてきたことです。

大切なこと

題材として挙げた「積読リスト」は、二重の構造を持っています。まず、読書そのものが情報の濁流から距離を置けるメディアである、ということ。さらに、リストは自分の選択を直感的にしないツールである、ということです。この二重の構造が、私たちのもとに押し寄せる情報の濁流からあなたという「圏」を守ってくれます。あるいは、そうして守られる圏こそが、「あなた」なのだと言えるかもしれません。

大切なのは、時間をかけること、間を置くこと、間を作ることです。

インターネットを代表とする近代的なメディアは、「すぐに」を迫ってきます。すぐに評価する、すぐにレスする、すぐに判断する、すぐに購入する、すぐに次に移る……。そうして刹那性の中に置かれた私たちは、因数分解できない「らしさ」を発露する機会を消失してしまうでしょう。

もしそんな環境で自己肯定感が育ったら奇跡と言えます。何しろ、そこには「自己=私」と呼べるものが何一つ存在していないのですから。もっと言えば、明らかに他と区別できる「私」的要素がそこにはありません。刹那的な行動や判断をとるとき、私たちは群衆となり大衆となります。

怒りに突き動かされ、誰かが提示した対象を攻撃し、自分で調べることも、自分で考えることも、自分なりの考えを表現することもない。そんな存在です。

その瞬間(刹那)はたしかに心は浮き足立っているのかもしれません。ドーパミン的な高揚感は予期できます。でも、それだけです。その心が充足されることは永遠にありません。そもそも満たすだけの器=圏がないからです。

そうした状況からの回避は、別段読書だけに限られるものではありません。時間をかけること、間を置くこと、間を作ること。これらが実現されるなら何だって手法となり得るでしょう。

たとえば、リストを作ることは、直感的に決意することよりは時間がかかります。自分の考えを文章にあらわすこともそうです。そのような決断とダイレクトにつながらない(しかし、決断をサポートする)行為は、時間を必要とし、その時間が間となって機能してくれます。

日記を書くこともそうです。日記は一日を振り返ります。それは「すぐに」を迫ってくるメディアとはまったく別様の在り方です。少しだけでも(たとえ5分でも、刹那に比べれば長いわけです)時間をかけてその日の日記を書くこと。それだけで自分の注意はせかされる方向ではなく、過去や少し未来を含む「今」に向けられます。その今は、前後を含む分「膨らみ」を持っています。刹那的なエッジはないのです。

積読リストにせよ、日記にせよ、「すぐに」とは距離を置くメディアやツールであれば、あなたという圏を作り、それを維持することに役立ってくれるでしょう。

たとえそうしたところで、知的生産性や教養は高まらないかもしれません。しかし、知的生産性や教養を高めることはそんなに大切でしょうか。もっと言えば、それを「すぐに」せよと迫ってくるメディアがどこかにあるのではないでしょうか。

よくよく考えてみてください。ゆっくりと、時間をかけて。

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