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教養ゲームに乗れない気持ち / そこにあるかもしれない悲劇

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2021/10/11 第574号

○「はじめに」

ポッドキャスト配信されております。

◇第八十五回:Tak.さんとAX(アナログ・トランスフォーメーション)について by うちあわせCast

アナログの話から始めましたが、「デジタルツール」の使い方について重要な話が出てきたと思います。あと、ブックカタリストは一回お休みとなりました。

〜〜〜ノート・エッセイ〜〜〜

新連載というかなんというかが始まっております。

◇ノートエッセイ|倉下忠憲|note

『すべてはノートからはじまる あなたの人生をひらく記録術』へのご感想で、「もっと実際例があった方がよかった」というものをいくつか見かけたので、販売促進もかねてnoteで「私の実際例」をエッセイ風に紹介していこう、という企画をスタートさせました。

で、二回ほど書いてみて思ったのですが、もしこういう話をたくさん本の中に盛り込んでいたら、「倉下のノート術」として受け取られてしまっていたでしょう。私としてはもっと射程の広い話をしたかったので、実際例がほとんど含まれていないこの形はおおむね適切だったのだろうと思います。

〜〜〜情報整理大全〜〜〜

新しいレーベルというかシリーズが電子書籍で始まるようです。

◇「情報整理大全」シリーズvol.0創刊にあたって|金風舎|note

見知った名前がたくさん含まれているので、今から発売が楽しみですね。ちなみに直近だと"2021年10月29日に第1弾 Tak.著「アウトライナーとパーソナルな情報ツール」発刊"が決定しているとのこと。そりゃもう買いの一冊です。

で、それはそれとして思うのが、こういう風に「いろいろな人の方法を集めたもの」を指し示す言葉があるとよいな、ということです。簡単に言えば「方法集」ということなのですが、案外日本ではこの言葉は耳にしません。でもって、日本語の「方法」は複数形にはできないので、方法の複数感を出すのが存外に難しいのです。

「大全」という表現だと、欠けたところのない網羅した情報という印象があり、それぞれの人の「個人的な方法」とは、自分の「欠け」に合わせたやり方を意味するので、若干言葉の「感触」に噛み合わなさがあるわけです(別に文句をつけているわけではありません)。

でもって、思うのですが、そうした「方法集」を名指す言葉が一般に流通していないことが、私たちの「方法事情」を示しているように思います。ある方法を絶対的に行うか、そうでないか、という考え方が一般的なのでしょう。

〜〜〜『チ。』〜〜〜

Twitterでエゴサーチをしていたら『すべてはノートからはじまる あなたの人生をひらく記録術』と一緒に『チ。―地球の運動について―』を購入されている方がいらっしゃいました。

『チ。―地球の運動について―』はすごく面白い作品でぜひともお勧めしたいのですが、それはそれとしてこのお話は「記録」についての──ものすごく困難を伴う──人類のお話でもあります。

私たちが今あたり前にさまざまな記録を残し、言説を発表できるその状況について、改めて考えるきっかけをくれる作品だと思います。

〜〜〜知的生産の七つの習慣〜〜〜

『イキイキとした知的生産のための7つの習慣』という企画案を考えました。最初は「知的生産のための7つの習慣」とだけ思いついたのですが、語呂的に頭の方が寂しい感じがしたので、ちょっと付け足した格好です。

中身は以下。

・書き留める習慣
・問い掛ける習慣
・調べ上げる習慣
・言い表す習慣
・話し合う習慣
・組み替える習慣
・磨き上げる習慣

これだけでもう「それっぽい」感じがしますね。一章1万字書けば、7万字の原稿ができあがりそうです。

…………

……

だいたいこの段階までは楽しいのです。企画案を考えるこの段階までは。

〜〜〜多重のカテゴリー〜〜〜

使用済みのスプレー缶が結構溜まってきたので、缶に穴を空けるための器具を100円均一ショップに買いに行きました。で、お店にはってから気がついたのです。「棚、どこだろうか」、と。

よくよく考えてみると、「使用済みの空き缶に穴を空けてガスを抜く」ための器具はいろいろな棚で「ありえます」。もともとコンビニ店員だったので、商品をどこの棚に並べるのかを考えるのが結構好きなのですが、台所小物の棚に置くこともできそうですし、DIY系の工具の近くに置いたって大丈夫かもしれません。ごみ捨て関連のグッズと一緒に並べてもよいでしょう。

結果的にそのお店ではゴミ袋コーナーの近くにあったのですが、こういう「どこの棚に置いてあっても、別段おかしくない」商品の扱いが、アナログの「整理」で難しさを生み出しているなと改めて痛感しました。

〜〜〜カレンダーを再定義する〜〜〜

先日、三日ほど「デジタルメモ」について考えていました。その三日間は、日本で一番デジタルメモについて考えていたんじゃないかと思うくらいに考えて、結局結論はでなかったのですが(残念)、それが終わったら次は「カレンダー」に対象が移行しました。

デジタルにおける、カレンダー。

一般的に、デジタルカレンダーも、アナログと同じフォーマットになっています。デジタルなので自由に表示する期間を変えられるというメリットはありますが、それでも「表組み」で表示されている点はかわりません。

しかしながら、パソコンやらスマートフォンの画面で見るカレンダーって、どうしても一つのマスの表示領域が狭くなりがちです。月表示をしたら、その傾向はより強くなります。

「これって、本当に日付情報を表示する最適な形なのだろうか」

そんな疑問が頭にむくむくと浮かんできましたわけです。

もちろん、現状答えは得ていませんが(残念)、それでも「カレンダーとは何か?」を問い返し、新しいビュースタイルでカレンダーを再定義してみるのもそう悪いことではない気がします。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のウォーミングアップ代わりにでも考えてみてください。

Q. 表組みを使わない「カレンダー」を作るとしたら、どんな形にしますか。

では、メルマガ本編をスタートしましょう。今回もエッセイを二つお送りします。

○「教養ゲームに乗れない気持ち」

教養ゲームに乗れない、という気持ちはなんとなく理解できる。

教養ゲームとは何か。たとえば、以下のような言説である。

"即効性のある情報ではなく、たしかに身になる知識を、時間をかけてコツコツ積み上げていきましょう。"

具体的な記述はさまざまであるし、何のためにそれをやるのかの理由づけも発信者によって異なるが、そこで行われる「ゲームとそのルール」は共通している。

・何かを鵜呑みにしてはいけない
・自分の頭で考えなければならない
・すぐに役立つ情報はすぐに役立たなくなる
・長期的に役立つ情報を求めること
・情報はネットワークを形成している
・そのネットワークを自分の脳内に構築すること
・知識を単独で(雑学的に)捉えるのではなく関係性で理解すること
・専門バカになってはいけない
・多様な知識を学ぶ必要がある

まだまだ列挙していけるが、おおよそ雰囲気は掴めるだろう。ビジネス書・自己啓発書を「嫌っている」人たちが好んでいる価値観である。もちろん、私もその価値観の信奉者だ。

そうした価値観を持つ人間からすると「これ一冊で教養が身につく」みたいな言説は鼻で笑う対象となる。そうした言説は「教養」というもののコンセプトをまったく理解していない。「本一冊」では身につかないものこそが、教養なのである(あるいは、本を一冊読んだくらいで教養は身につかいない、という知識こそが教養扱いされているかもしれない。メタ教養だ)。

たくさん本を読み、いろいろなことを考えて、ようやく身につく(あるいはそのように感じられる)ものが教養なのであり、即効性を求めるのは下手なアプローチであるからして、みんなもっとじっくり時間をかけて学び、知識のネットワークを築いていこうぜ、というような提案が「教養ゲーム」である。

もう一度言うが、私はこのゲームの信奉者である。これが最善の方法であるとは考えていないが、しかし効果的な──もっと言えば相当に効率的な──方法であるとは考えている。

その上で思うのだ。このゲームに乗れない、と言う人の気持ちもなんとなく理解できるな、と。

■私とソシャゲ

ソーシャルゲームの話をしよう。

私はiPhoneでパズドラ(パズル&ドラゴンズ)をプレイしている。今確認したら3161日目であった。トッププレイヤーからはほど遠いが、それでも自分なりにパーティーを組んで楽しめる程度のキャラクターを保有している。ある種の資産がそこに形成されているわけだ。

さて、世の中にはゲームがたくさんある。ソーシャルゲームも同様だ。新しいものが次々に発表されるし、既存のゲームがアップデートすることもある。最近は、アニメや漫画や他のゲームとのコラボレーションも盛んで、そのたびごとに既存のゲームが華々しくフューチャーされる。タイムラインに情報が飛び込んでくる。

そういう情報を目にすると、パズドラ以外のゲームにも手を出したくなってくる。そして、実際にインストールしてみる。さて、どうなるか。

私にとってはまったく新しいゲームではあるが、サービス開始から数年経っているゲームならばプレイヤーはたくさんいて、攻略する要素もすごく多い。サービス開始一日目からプレイしているならば、他のプレイヤーも少しずつ増えていき、攻略要素も徐々に増えていく経験をしているのだろうが、後から参加すると、それらの状況が「整っている」ところから始まる。

こうなると結構しんどいのだ。

まず、あれやこれやとやらなければならないことが多い。キャラクターを育て、武器を育て、ペットを育てなければならない。通常ダンジョンがあり、エクストラダンジョンがあり、ハイパーエクストラダンジョンがある。何を優先させていいのかまったくわからない。

またキャラクターも多彩で、アイテムも多彩で、戦略も多彩だから、何をどうすれば「効率的」なのかもわからない。正直その手のゲームの途中参加で「ゲーム攻略wiki」を見ないままだと、ほぼ「ゲームにならない」だろう。

それだけではない。最近のソーシャルゲームは、ソーシャル要素が盛んであり(定義から言って当然だ)、プレイヤー同士のランキングがあったり、プレイヤーがチームを組む組織(クランなどとよく呼ばれる)同士のバトルがあったりする。そこでは、「プレイヤーの比較」が日常的に行われている。

たとえば、プレイを始めた私はレベルが1で、クランのリーダーがレベルが1036だったりする。これは誇張でもなんでもない。数年以上続いているゲームならこれくらいのレベル格差があるのはごく平均的である。あぜんとさせられる差だ。

それでもまだ最初は構わない。その手のゲームはユーザーを「誘導」するのが非常に上手いので、レベル1から10くらいまではサクサク上がるようになっている。チュートリアルをプレイしたらレベルがあがり、次のチュートリアルに進むことができ、そこでもまたレベルがあがって、ということが繰り返される。

でも、その「下駄履かせ」は永遠には続かない。レベル10くらいになると一回戦闘したくらいではレベルがあがらなくなる。あるいはレベルを上げるために金貨や別のアイテムが必要になってくる。でもって、そうしたものはこつこつと敵を倒して集めなければならないものだ(それが嫌なら大胆に"課金"しなければならない)。

そういう地点に立つと、レベル1036のプレイヤーの存在は「遙か彼方」という気がする。そして、実際にその通りなのだ。そのプレイヤーは数年分の「厚み」を持っている。実際、その分だけ人生の時間を使い、キャラクターをを育ててきたのだ。

そして、自分も同じ地点を目指すならば、同じ「厚み」をくぐり抜けなければならない。

そんなことやっていられるだろうか?

だったら、すでに3161日プレイしている(つまり「厚み」を持っている)パズドラをやっていた方がはるかによいのではないか。

そんなことを考えて、結局私は新しくはじめたゲームをやめ、パズドラへと戻ってくるのである。

■熟達者からの誘い

「教養ゲームを始めましょう」という文言は、当然そのゲームの熟達者によって語られる。十年来のプレイヤーが、そのゲームへの参加を誘(いざな)うわけだ。

誘われる側にとって、そのような熟練者への憧れが駆動力になるのだろう。しかし、その差は「絶対」に埋まらない。教養ゲームが、読んだ本などの経験的総体によってその実力を判断するものであるかぎり、十年遅れで参加するプレイヤーが巻き返すことは不可能だ。すさまじいまでのジレンマが起こることが想定できる。あるいはルサンチマンが湧き出てくるかもしれない。

また、そうした熟達者への憧れがないにしても、一定の年齢において教養ゲームに誘われたとき、自分がひどく「立ち後れている」感じがするのは否めないだろう。自分と同じような年齢で、自分よりもリードしている人間がいるのならば、そのゲームの性質からいって、その序列はひっくり返ることがない。つまり、"不利"なゲームを強いられることになる。

そんなゲームに参画するくらいならば、これまでやっていたゲームを続ける方が心地よいのではないだろうか。少なくとも、そのように判断することは、そんなに不合理とは言えないだろう。

■ゲームの比較

あるいは別の視点もある。

この社会で提示されるのは教養ゲームだけではない。別のゲームもある。たとえば成り上がりゲームである。

「成金」という揶揄の言葉もあるが、伝統に裏付けられた価値を持つのではなく、何かしらの社会的出来事(たとえば事業の成功)によって、「成功者」に成り上がる、という現象があり、それを目指すのが成り上がりゲームである。

こうした成り上がりゲームへの誘(いざな)いは、実に魅力的である。そうした言説は「5年も10年もかかります」などとは言わない。即効性のある、具体的な施策が提示され、それに従えば「うまくいきます」と結果を保証してくれる。

そこに熟達者がいようがいまいが関係ない。10年の遅れなど気にしなくていい。契機さえ捉まえれば、一気にそのゲームにおける高位のポジションを獲得できるのだ。

もちろん、識者は次のように指摘するだろう。「そんな成功なんて、運であり、誰しもが掴めるわけではないのだ」と。しかし、その指摘こそが、このゲームの肝であることに識者は気がついているだろうか。

「運」さえあれば、誰でもが成功者になれるのだ。当人がどれだけ知識を有しているのか、考慮できる人間であるのかはまったく問わない。むしろ、そうした資質を不問するのが「運」という要素である。

「成功は運でしかない」という言説は、「運さえあれば成功できる」という言説に容易にひっくり返る。そしてその裏面が、教養ゲームに「乗り遅れた」と感じている人に響くのである。

なぜ自分が遅れていて、不利な盤面で勝負しなければいけないのか。それよりも──あたかも宝くじを買うみたいに──チャンスさえあれば、誰でも成功できる盤でプレイした方がずっと合理的ではないか。

こういう考えは、少なくとも「一理」はあるだろう。無知蒙昧として切り捨ててよい考え方ではない。

(下につづく)

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