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メモの付随性 / リーガルパッドとデジタルノート / 知識を身につける

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2024/03/04 第699号

はじめに

ポッドキャスト、配信されております。

◇第百四十七回:Tak.さんと『自分の「声」で書く技術』とフリーライティングについて 作成者:うちあわせCast

◇ゲスト回BC084 jMatsuzaki さんと『先送り0(ゼロ)』

うちあわせCastでは、『自分の「声」で書く技術』を紹介しました。すらすらと書けてしまう人には無縁の技術かもしれませんが、文章を書くことに悩みを抱えている人は多いでしょうから、有用な一冊だと思います。加えて、「ダウティング・ゲーム」と「ビリービング・ゲーム」の考え方は思考法としても有効です。

ブックカタリストでは新刊『先送り0(ゼロ)』について、共著者の一人である jMatsuzaki さんにお話を伺いました。私はタスクシュートユーザーではありませんが、デイリーベースでログを重視する考え方はロギング仕事術と通底している部分を感じます。でもって、効率性とかそういうことを考える手間に「問題」が潜んでいることは間違いなくあるでしょう。

そういう部分にケアできる「仕事術」や「ライフハック」の登場が待たれます。

〜〜〜技法の話〜〜〜

私はノウハウ系の話題が大好きですが、単に手順などが示されて終わりという簡潔なものよりも、何をどう考えてそういう手順に至ったのか、という補足的(あるいは枝葉的)話題が含まれているものが好みです。

というか、そうした補足的な話が「本体」な気もしています。だから、手順だけが示されていると、「はい、お待ち」とどんぶりに麺だけ入れてラーメンを出されたような気持ちがします。どっちかというと、ラーメンの主役ってスープですよね、みたいな。

実務的に言えば、補足的なものがあるからこそ文脈がわかり、情報を活用しやすくなるのだ(だから必要である)、という主張も可能なのですが、そういうのは後から出てきた言い訳であって、とどのつまりは「そういうのを読むのが楽しい」というだけなのでしょう。

でも、楽しいことって存外に大切です。

〜〜〜忘れていた連用日記〜〜〜

日常的に、作業記録をつけています。現在は、CotEditorで普通のテキストファイルに書きつける形です。

一時期は、Textboxに日付ごとのファイルを作り、そこに書きつけようともしていましたが、なんだかんだでCotEditorに戻ってきた感じです。

で、たまたま、本当にたまたま、Textboxの検索欄に「2024」と打ち込んだら、「2024-03-01」のようなファイルがサジェストされました。私はこういう日付のファイルを作った覚えがありません。

で、確認してみると過去分の日付ファイルがすべて存在しています。

……。

おぼろげながらに記憶を辿ってみると、たしか何かのスクリプトで自動的に日付ファイルを作っていたような……。

で、そのファイルを開いてみると、当日のファイルでは中央にエディタがありそこに作業記録を書けるようになっています。昔はこの形で作業記録をつけようとしていたのでした。

しかし、昨日よりも前のファイルは様子が違います。中央のエディタは表示されず、カード型のコラムが並んでいるのです。

そのコラムを読んでみると、どうやらCotEditorで書いている普通のテキストファイルを読み取り、その内容を抽出して整形しているようです。その日手がけたプロジェクトは何で、更新したブログは何で、といった情報がまとめられていました。

私がそうしたファイルをまったく参照しなくなってからもずっと、私のパソコンのどこかのスクリプトが毎日毎日そういう作業を行っていたのだと考えると、ちょっとエモさが湧いてきます(タチコマに向ける情感に似た気持ち)。

さらに当日用のファイルには、エディタ部分の下に「連用日記」も表示されていました。一日前の記録、一週間前の記録、一ヶ月前の記録、一年前の記録から情報を取得し、当日用のファイルに差し込んであるのです。しかも、モダンな「関連リンクの表示」ではなく、実際にそれぞれの日付のファイルを開き、必要な情報を取得して、当日のファイルに直接書き込むという力技が行われていました。当時の私のコーディングスキルではこれが精いっぱいの処理だったのでしょう。

あきらかに不細工な処理ではありますが、それでも情報自体はきちんと表示されています。この機能を作ったばかりの頃は、一年前の記録は当然なく、一ヶ月前すら存在していなかったのですが、今見ると連用的情報がきちんと揃っています。

でもって、それを目にするのは楽しさと嬉しさがあります。覗いたそのときには、一年前の同じ日付の日に妻がカレーを作ってくれたことが書いてありました。些細な出来事かもしれません。しかし、日常とはまさにそうした些細な出来事ででき上がっているんだ、ということを思い出させてくれる効果があります。

やはりこういうのは「効率性」とは違ったところに主眼がありますね。もちろん、効率的でないと続けられない部分はあるものの、効率的だったら満足できるかというとそういうわけではないでしょう。自分の心に生じている「何か」が一番大切なことです。

皆さんはいかがでしょうか。デジタルツールで、昔の情報に遭遇して何か生じた「心の変化」はあったでしょうか。よろしければ、倉下まで教えてください。

では、メルマガ本編をはじめましょう。今回は、メモ論の続き、リーガルパッドについて、知識を身につけること、の三篇をお送りします。

メモの付随性

メモは、短期記憶を補助するものである。だからこそ、断片的な書き方で十分に間に合う。

ここから言えることが二つある。一つはノートについて。もう一つは、メモについてだ。

■ノートについて

まずノートについて。

ノートはメモではない。メモが短期記憶の補助であれば、ノートは長期記憶の補助である。言い換えれば、本連載では、長期記憶を補助するものをノートと呼んでいく。

そのノートは、(メモではないのだから)断片的な書き方では間に合わない。時間が経った後に使うことを想定し、完全な書き方をしなければならない。

このようにしてメモの性質を見極めることで、それとは異なるノートの性質も明らかになる。今後も同種のことは何度も起こるだろう。それが「考える」という行為の楽しさでもある。

■メモについて

続いてメモについて。

メモは、断片的な書き方で間に合う。なぜか、短期記憶がそうなっているからだが、ではなぜ短期記憶は断片的で良いのだろうか。

それは行動に付随するからだ。

買い物リストに「ポン酢」と書いてあって、それがポン酢の定義を研究することではなく、買い物カゴにポン酢を入れることが意味されていると理解できるのは、今まさに「買い物」をしているからだ。実施している行為が、情報のコンテキストを提供し、それが情報を補完している。

また、棚に並んであるたくさんのポン酢からどれを選ぶのかを悩まないのは、普段使っているポン酢を知っている場合だろう。調味料置き場を覗いたことがない状態でポン酢売り場に臨んだらどれを選んでいいのかはわからないはずである。

よって「ポン酢」という書き込みを見て買い物をするときには、普段使っているポン酢についての長期記憶が情報を補完しているわけだが、話は少し複雑だ。というのも、自宅用のポン酢を買っているときと、贈答用のポン酢を探しているときで、探索される長期記憶が異なるからである。前者は自宅の調味料棚が、後者はおいしいと評判のメーカーが想起されるだろう。

つまり、「食料品の買い物」という行動や「贈答品の購入」という行動が、大きな意味での文脈を規定していると言える。

まとめよう。

メモは行動に付随する。行動において、メモは利用される。だからこそ、その情報は断片的で構わない。この観点は、以降メモの種類を検討する上で役立つはずだ。

■行動をサポートする

「メモは行動に付随する」をさらに展開すれば、メモは行動をサポートする存在とも言える。行動があり、それを補助するためのメモがある。そういう関係だ。

逆に言えば、メモは補助でしかない。メモ単体で何かを成すことはなく、行動に付随することでその力が発揮される。

よって、メモばかりが増えても仕方がない。少なくともメモに付随する行動が増えないと、メモは宝の持ち腐れになる。

この点もノートとの違いと言える。ノートは、付随する行動がなくても何かを成すことができる。もちろん、ノートも「読む」という行為が必要なのだが、その行為は読むことそれ自身が目的であり、外部に向けた行動は存在しなくても実践できる。ただ読むだけで、何かしらの意味がありうるのだ。

メモはそうではない。メモは、行動に付随してこそ真価を発揮する。

だからこそ、メモはあらゆるジャンルに顔を出すのだ。私たちが、情報を必要とするあらゆる行動において、メモが活躍する機会はかならずある。

逆に言えば、行動はするが新しい情報を必要としない、つまりルーチンだけで生活がなりたつ場合は、メモの必要性は感じられないだろう。同様に、本能のまま生きて行くことを肯定できている場合も、別段メモなどは必要ない。ただ、そのままに生きていけばいい。

そうした状態からの変化を望むとき、メモの力が発揮されていく。

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