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『ロギング仕事術』と『リサーチのはじめかた』と自分中心の生き方

『ロギング仕事術』では、私たちが「自分の情報」を持っていないことを問題として指摘した。自分が何が得意で、どんな特性を持っているのかを知らないままに事に当たろうとしたら、そりゃうまくいかないだろう。

だから記録をつける。「自分」というものに関心を持ち、注意を向ける。ただし、その「自分」は意識だけを指しているわけではない。生物的な肉体を含めた、他者と相互作用して何かしらを「やらかして」しまう存在。そういう「自分」に目を向けるわけだ。

記録をつけることをしないと、私たちは「自分が考えている自分」だけを「自分」としてしまう。まさにその状態こそが、「自分の情報」を持っていないということだ。「自分」を決めつけていると言ってもいい。

実際に行動し、その結果に注意を向けていると、思いもよらなかった自分と出会うことが少なくない。「へぇ、こんな感じがするんだ」とわかるわけだ。「自分」を発見したのである。

そういう発見が増えていくと、いろいろな選択で適切と思える(あるいは納得感がある)決定を下せるようになる。それは、大きく言えば好ましいことだろう。

プロセス=別の結果

『リサーチのはじめかた』では、「自分中心の研究者」という概念が提出される。世間的にどうとか、やりやすいとかどういう観点ではなく、まず自分が強く興味を持てる題材(問い)を探そう、というアプローチだ。

やってみるとわかるが、そうした問いを探していくことは、そのまま自分についての理解を深めることにつながっていく。「ああ、自分はAというものに興味を覚えるが、しかしAとよく似たA'には興味を覚えないのだ」ということがわかるとき、「自分」が新しく発見されている。

その意味で、「自分中心の研究」は、自分による自分のための研究であると共に、自分自身についての研究でもある。そういう両義性が見出せるものは、基本的に強い。

さらに、『リサーチのはじめかた』では、そうした自分の問いを見つけるための行った全プロセスをきちんと書き残せと進めている。もう少し言えば、書きながら考えることをしておけば、それが結果的に全行程の記録となるよね、ということだ。ここでも「ロギング」の考え方が効いている。

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日本では「自分」を前に出すことはあまり好まれない。それよりも一歩引いて集団に貢献する方が好まれる。そうした環境にあっては、「自分」に関心を持ち、発見を広げていくような試みは推奨されないだろう。

たしかに自分のことばかり考えて行動する人間は、共同体から見れば厄介な存在である。よってそうした抑圧が生まれるのは自然なことだろう。

一方で、自分中心主義を徹底すればするほど、相手の存在も重視するようになるという逆説がある。自分というのはまわりとのインタラクションで立ち上がってくるという「理解/発見」が生まれれば、他人を軽んじることができなくなるわけだ。

「自分」というのが独立的に存在していると考えるような(つまり「自分が考えている自分」しか見えてない)状態では、他者は軽く扱われてしまう。当人にとってそれらは孤絶したオブジェクトでしかないからだ。しかし、深く「自分」というものを見つめれば、話は変わってくる。

とすれば、必要なのは自分中心主義を中途半端に抑制するのではなく、むしろそれを徹底することだろう。そうした先に、むしろ他者が立ち上がってくるのではないだろうか。


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