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ラディカルなRashitaのスタイルの変容

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2021/03/29 第546号

○「はじめに」

新しいポッドキャストのエピソードが配信されております。

◇第六十四回:Tak.さんとアウトライナー四方山話 by うちあわせCast | A podcast on Anchor

◇真にすごい人は権威を権威を笠に着ない - ブックカタリスト

◇第2回(後半)「完璧に読書録をとらなくても何も困らなかった」(倉下さんと読書について) - 独学同好会通信

独学ラジオでは、かなりぶっちゃけた話をしていますが、わりと大切なことだと思います。よければお聴きください。

〜〜〜Outputter〜〜〜

「Outputter for Twitte‪r」というアプリを最近使いはじめました。

ごく簡単に言うと、FastEver的にTwitterに投稿できるアプリです。でもってめっちゃ便利です。

投稿はできるし、自分宛のメンションも確認できるけども、タイムラインは確認できない、という機能が制限されたツールなのですが、何かをつぶやこうとしてTwitterアプリを開いたら、面白いツイートが目に入ってそれを読んでいるうちに自分がつぶやこうとしていたことをすっかり忘れてしまう、というコントのようなトラップを回避できます。

あと、自分のツイート履歴も確認でき、それぞれのツイートにセルフリプライができるので、蓮ツイのようなことも可能です。これも便利です。

そんな風に本当に「ひとりごと」をつぶやくなら別にTiwtterでなくてもいいわけですが、その話をいったん脇に置いておくならば、鍵付きのアカウントを一つ作ってこの「Outputter for Twitte‪r」と紐付けておけば、おそらくEvernote + FastEverと同じか、それ以上のメモツールに化けると思います。その点についてはまたどこかに書きましょう。

〜〜〜お前はオレか〜〜〜

そう頻繁にあるわけではありませんが、他の人のScrapboxを読んでいると、強度の高い「お前はオレか」感が出てくることがあります。書いてあることが、まさに自分が思うようようなことだ、と感じるのです。

ブログ記事でも「わかる〜」といった感覚はあるのですが、そこまで強い「お前はオレか」感はあまりありません。なぜかと言えば、文章化の中でその人が感じている素朴な思いがろ過(ないしは洗練)されているからでしょう。心象的な記述がストレートには出てこないのです。

その点、Scrapboxでは過剰な「外向け」の意識はなくなります。削り落とされるような心の声がそこに記されるのです。

普段なら見えるはずのない、そのような心の声が垣間見えることが、記録の面白さであり、インターネットの偉大さであることは間違いないでしょう。

〜〜〜トータル怖い〜〜〜

最近、Webサービス・エクソダスをいろいろ考えていて、そのうちの一つに「ブクログ」からの撤退があります。

完全に止めるかどうかは別にして、自分が買った本のデータを自分のローカルファイルでも管理できるようになった方がいいのでは、と思いはじめているわけです。

どのような管理方法が良いのかは現時点ではわからないものの、きっとブクログから全データをエクスポートすることは可能だろうと思い、それを実行してみました。

◇ブクログのデータをエクスポートする - 倉下忠憲の発想工房

で、ファイルの中に「金額」のデータが含まれていたので、これを上から下まで足していけば、「自分がブクログ(正確にはメディアマーカー)を使いはじめてから現時点までの書籍購入に使ったお金の総量」がわかるなと思ったところで、その先が怖くなってすぐさまファイルを閉じました。

そう。世の中には、知らないことが良いものもあるのです。

〜〜〜知らずに浸透しているDoMA〜〜〜

「自分の情報ツールの構造を、自分で作っていく」

というコンセプトを持つDoMAについて、以前R-styleで記事を書きました。で、特に話題にもならず、そのまま時は流れたのですが、少し前に大橋悦夫さんがDoMA式でうまくいくようになった、という話をしてくださり、へぇ〜と思っていたのですが、それ以降「実は私もDoMAをやっています」という話をちらほら聞くようになりました。

隠れキリシタンか!

と思わずつっこみたくなりましたが、よくよく考えたらそんなことをいちいち公言してまわるものではありませんし、そもそもDoMAはそれぞれの人がそれぞれの構造を作っていくので、自分の構造を「ノウハウ」として他の人に伝えるモチベーションも湧きません。なにせ私ですらDoMAで作った構造をブログで紹介していないのですから、他の人ならなおさらでしょう。

でもまあ、なんであれ、自分の書いたこと・提言したことが、他の人の実践に役立っているならそれ以上嬉しいことはありません。

もっと多くの人に「DoMAって」もらえるように、書籍の執筆も進めたいところです。

〜〜〜たしかに覚えているもの〜〜〜

十年以上R-styleを書き、総記事数は余裕で5000記事を超えているので、その大半を覚えていません。内容も、タイトルも、そういう記事を書いたという記憶すら失われているものがほとんどです。人間の記憶力からすれば、当然のことでしょう。

そんな中にあって、たしかにタイトルを覚えている記事がいくつかあります。いま空(そら)でキーボードを叩くと、たとえば以下のようなタイトルが出てきます。

・知らずに押していた背中
・あなたの方法で良いんです
・あなたの「無理」はどこから

もちろんタイトルを覚えているだけでなく、この記事で何を書いたのか、もっと言えば何を伝えようとしたのかも覚えています。

ここまでたくさんの記事を書いて、たったこれだけしか思い出せないのか、それともこれほどたくさんの記事を書いたから、これだけが何とか記憶に残れたのかはわかりませんが、それでもこうして「覚えている」記事があるのは良いものです。

〜〜〜有り難い情報〜〜〜

デリダ論についての本は、『郵便的、存在論的』以外に読んだことがないな〜、といったことをつぶやいたら、千葉雅也さんからいくつか本の情報を頂きました。もちろん、そそくさとその中から本を選んで買ったわけですが、考えてみるとこれはかなりすごいことです。研究者の方から、書籍の情報を教えてもらっているわけですからね。一般的には、大学生でないとなかなか得られない「情報環境」です。

たとえば、コンビニの店長が「店舗運営って難しいよな〜」とぼやいたら、柳井正さんから「ドラッカーの『マネジメント』を読むといいですよ」とアドバイスをもらえる状況を想像すればいいでしょう。ちょっとありえないですよね。

そういうことが起きてしまうのが、Twitterであり、インターネットです。

あと、もう一つだけ言い添えておくと、何かに長じていることは、それだけで他の人に贈与を行える可能性を持つ、ということです。当人がそうするつもりもなく贈ってしまう贈与を。

〜〜〜ハードワークはクールではない〜〜〜

以下の記事をたまたま再読しました。

◇デイブ・ワイナー「一日の終わりにがんばりすぎないこと」:Word Piece >>by Tak.:SSブログ

2013年の記事で以前にも読んだことがあったのですが、今改めて読み返してみると、さらに共感が深まります。

脳は疲れ、身体は疲労し、回復を必要とする。あたり前の話です。でも、私たちはその状況をハードワークで打破しようとします。能率、つまり時間当りの生産性が落ちている状況を、長く働くことで挽回しようとするのです。

滑稽なのは、そうして長く働けば働くほど疲れからさらに能率が下がり、どこかの時点で「ノーワーク」になってしまうにも関わらず、それにまったく気がつかない自分がいることです。

少なくともそれが知的生産系作業である場合、つまりある知的処理が必要な仕事である場合、「もうこれ以上仕事をしても、期待される成果は得られない」ポイントがあります。そういうポイントを見極めないままに、ただワードワークで解決しようとするのは、無能なジェネラルのやり方でしょう。

〜〜〜今月読んだ本〜〜〜

三月の最終週なので、今月読んだ本を三冊紹介します。

『うまくいっている人の考え方 完全版 (ジェリー・ミンチントン) (ディスカヴァー携書)』

ああ、自己啓発という感じの本で、やはりライトな『七つの習慣』に位置づけられそうです。他人を変えようとしないとか、自分が影響を与えられることに注目するとか、お馴染みの内容がまとめられていますので、この一冊を読んでおけばだいたいのビジネス書はカバーできそうです。

それはそれとして、読み手を元気づけようとするその姿勢はとても良いなと思いました。難しい理屈をこね繰り回すことだけが、本の役割ではない、というあたり前のことを再確認した次第です。

『クララとお日さま』(カズオ・イシグロ)

普段カズオ・イシグロ作品はほぼ読まないのですが、タイムラインで何人かの方がプッシュしておられたので、興味を持って手に取りました。たしかに面白いですし、小説としてすごく上手いです。よくよく考えたら、最近はこういう文芸をまともに読んでいなかったので、イノセントに感動しました。

とは言え、まだ読了まではいっていないので引き続き読みたいと思います。

『NHK 100分 de 名著 カント『純粋理性批判』』

哲学者の中でも、かなり難解であり、しかし決してスルーできない重要さを持つ人がカントなわけですが、さすがの「NHK 100分 de 名著」シリーズです。カントの重要さとその思想が明瞭に解説されています。

やっぱりカントってすげーなと(特に客観性の処理が見事です)思いました。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけですので、頭のウォーミングアップ代わりにでも考えてみてください。

Q. 自分で書いた記事ではっきり覚えているものはありますか。あるいはR-styleの記事ならどうでしょうか。

では、メルマガ本編を始めます。今週はまるまる一号一記事でお送りします。

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○「ラディカルなRashitaのスタイルの変容」

来月、新しい試みをいくつか考えています。たとえばその一つが、このメルマガの「フォーマット」改訂です。

2021年から毎月テーマを決めて、それに関する記事をメイン企画として書くことをやってきましたが、その方向性をもう一段プッシュします。具体的には、一ヶ月分のメルマガで、一つの「本」を書く心積もりで進めるのです。

もちろん、慌てて補足しておくと、書籍の原稿を四回に分けて送信する、といった(どう考えても無謀な)チャレンジをしようというのではありません。週一回のペースで書籍の原稿を1/4ずつ仕上げるなんてことは、それを実行する前でもドリームであることは容易に推測できます。

そのような、「書いた連載をそのままくっつければ本として出版できる」という仕上がった」原稿ではなくて、強いていえばバザール執筆法のα稿にあたるものを送信する、というがこの試みの趣旨です。

まだ本の原稿としてみれば十分ではない、しかし明らかに本になることが目指されている原稿。それをメルマガで一ヶ月かけて掲載していくのです。

当然、そうして書かれた原稿は最終的に書籍化が目指されるわけですが、なにせバザール執筆法なので、そのままその通りに本になることはありません(ありえない、と断言してもいいくらいです)。誤字脱字や言い回しが修正されるだけでなく、もっと大きなレベルでの「改築」も行われることでしょう。むしろ、そうした改築を促すことがバザール執筆法の肝でもあります。

「書き出していないものは、書き直すことすらできない」

だからまず、書き出すのです。本を目指して。

■従来の連載の問題点

このメルマガは10年以上続いていますが、その期間の大半はアラカルト方式で進めていました。一つの号に5つくらいの連載がセットになっている、幕の内弁当のような構成です。

こうした構成であれば、一つあたりの記事は2,000字程度で済み、2,000字はちょうど私がR-styleで書き慣れている規模ですので、問題なく進められます。

むしろ、話は逆なのでしょう。私がR-styleで2,000字の記事を書き慣れていたので、その分量で数記事分書くと1万字程度のメルマガができるな、という目算が働いていたのだと、今振り返ってみると思えます。2,000字が私の中の「単位」になっていたのです。

ここに、メディアと書き手にまつわるさまざまな問題が見て取れます。

■選択ですらなく

まず、2,000字というボリュームはどれだけ「適切」なのでしょうか。もちろん、その適切さはメディアによって答えは変わってきます。Twitterで2,000字はそもそも投稿できませんし、本の原稿が2,000字だったら(ジョン・ケージ的なものを除けば)不適切だと言わざるを得ないでしょう。

メディアによって、適切な文字数は変わってくる。改めて確認するまでもありません。しかし、私はブログで書き慣れた文字数をそのままメルマガに持ってきました。なぜか。まさに「書き慣れている」からです。メディアとしてどのような文字数が良いのかを考慮することなく、単に自分が書き慣れているから、その文字数を選択したのです。

いや、選択すらしていません。「記事を書くなら2,000字で」という小説のタイトルのような無意識の前提がそこにはあったのだと思います。

別にメルマガの記事が2,000字であっても、1,500字であっても構わないのですが、私の中で記事を書く行為が、2,000字というフレーミング下にあったことは間違いありません。

だからこそ、これまでまったく規模感が変わることなく、メルマガが10年続いてきました。ここにはポジティブな意味と、ネガティブな意味があります。

■ポジティブな意味とネガティブな意味

ポジティブな意味は、「メルマガが10年続いてきた」を「続けられた」と読み替えれば浮かび上がるでしょう。

何かを新しく始めることはエネルギーを必要とします。それまでの慣性を打ち破る巨大なパワーがないと、行動リストに新規項目を付け加えることはできませんし、できたとしてもそれを継続することは困難です。

「メルマガを始める」ことは、メルマガをまったくやっていない状態から、メルマガを毎週書く状態への移行を意味し、そこで要求されるエネルギーが多大であることは容易に想像できます。であれば、いかにその必要エネルギーを小さくするのかがコツになるでしょう。そのコツが、「書き慣れた文字数で書く」ことだったわけです。

新しいメディア運営を始めるときに、文章の「型」から構築するのでは必要エネルギーは極大化してしまいます。その意味で、スタートが2,000文字のアラカルトであったことは問題ないばかりか、妙手ですらあったでしょう。

一方で、それが妙手であったばかりに、そこからの逸脱が難しくなった面があります。本当に、自分が書くメルマガの一記事は2,000字で良いのだろうか、という問いが内省世界に出現しなくなったのです。それがネガティブな側面であり、「メルマガがほとんど何も変わらず10年続いてきた」と表現すればその意味がくっきり浮かび上がるでしょう。

■生成とその管理の相互作用

その変化を拒絶する問題は、タスク管理と組み合わさることで、より強固さを獲得します。どういうことでしょうか。

(下に続く)

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