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WorkFlowyの魅力について

新しいアウトライナーが出るたびにちょこっと試してみるのだが、やっぱりWorkFlowyに帰ってきてしまう。これはもう七つ道具の一つに数えてもいいくらいだろう。

直近では、BikeやLogseqはかなり良い線をついていて、いよいよ自分も脱WorkFlowyかなと思っていたのだが、結局はあいもかわらずWorkFlowyを使っている。これは一体何なのだろうか。

WorkFlowy 開発者である Jesse さんは、to-do リストを按配する道具として、しかも自分のアイディアをその中に書き込める to-do 按配の道具として WorkFlowy を捉えている。

WorkFlowyを使っていて一番心地よいのは、「線がない」ということだ。区切りのための線がない。すべてが一つのアウトラインに入っており、しかも入れ子を無限に続けることができる。完璧なフラクタルさがそこにはある。だから、原則としてそこには何でも入れられる。

My WorkFlowy

上記の画像は直近の私のWorkflowyである。一つのアウトラインの中に、雑多なものが詰め込まれている。そこにはto-do的なものもあれば、アイデアメモ的なものもある。備忘録的なものも含まれている。

考えてみるに、私たちが「考える」という行為を行っているとき、そこに線はない。すべてが一つの"デスクトップ"の上に広げられている。拡張子もアプリケーションもない。実に雑多だ。

その雑多なものは、雑多なままでは扱いにくいので、私たちはそれにラベルを貼り、区分けされたリストを作る。それはそれで便利な営みだろう。しかし、その名付けの手前の段階、西田幾多郎ならば主客未分とでも呼ぶようなラフな状態では、そこには線はないのだ。

WorkFlowyの気持ちよさはそこにある。ある限定的な意味において「自然な」動作がそこでは行えるのだ。面白いことに、私のもう一つの七つ道具であるScrapboxも、別の限定的な意味において「自然な」動作が行える。やはり、うまく使えるツールには抽象的なレベルで共通点があるのだろう。

閑話休題。

WorkFlowyは、主客未分の状態において(あるいはその段階の思考において)活躍するので、逆に言うとその後の処理においてはそこまで意義を持たないかもしれない。「わざわざ一つのアウトラインにしなくても、ファイルで分ければ楽じゃん」という感想がもっともよくあるものだろう。別にその感想自体が間違っているわけではない。単に、利用する思考のターンが異なっているだけだ。

他人の頭の中を覗けるわけではないので、もしかしたら世の中にはそのような思考を、つまり主客未分の状態の思考を行わない人もいるのかもしれない。すべては決定されたリストの中でのみ、知的操作が行われる。そういう場合も、やはりWorkFlowyはさほど威力を発揮しないだろう。

逆に、そういう形の思考は堅苦しくてしかたない、という人にはWorkFlowyは福音のような存在である。便利とか、便利でないとかそういうレイヤーよりも一段深いレベルで必要性を感じられるのだ。

もちろん、シンプルなUIと機能といった側面もWorkFlowyにおいては重要な要素である。しかし、とにもかくにも「ワンアウトライン」にすべてをまとめてしまい、フラクタルに展開し、部分にズームできるというそのツール設計は、ある種の「思考」を行う上で欠かせないものであるのではないかと、そんな風に考えている。

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