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見えなくなる二項対立

メモしておかないとすぐに忘れるので、備忘録代わりに記事にしておく(Scrapboxではなくnoteに書くのは、参照先がnoteの有料記事だからである)

「二項対立の脱構築」という考え方は、なんとなくわかるが、今回ちゃんと解説してもらったというような感想もよく見る。つまり、方法論として意識はしていなかったが、考え方自体はなんとなく持っていたというわけである。

上の記事

二つ思ったことがある。

一つは、「私が正しくて、それ以外はすべて間違っている」という感覚(あるいは何か正しい唯一のものがあり、それ以外はすべて間違っているという感覚)は、そもそも二項対立ですらないのだな、ということ。

たしかにその構図は分析的に見れば二項対立なのだが、当人の意識の中では「二つの項が対立している」ようには捉えられていないのだろう。なぜなら、二項対立において二項は、ある「等しさ」を持つからだ。プラスやマイナスなどの評価の違いはあるにせよ、その二つは同じ天秤に乗せられるもの、という感覚があるからこそ、それらが「対立」しうる。

二項対立の構造が閉塞感をもたらすにせよ、すくなくと「そういう構造がそこにある」と認識しなければ、その先には進めないだろう。逆に言えば、「これは二項対立だ」と認識できた段階で、片足以上は「白黒思考」からは抜け出せていると言えるのかもしれない。

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もう一つ思ったのは、若者の空気に合わせる風潮である。その場のノリに合わせて、自分の意見を言わないこと。親しい友人であっても(いやむしろ、親しい友人であるからこそ)意見を対立させないという配慮。政治的に深刻な対立ではなく、好きなアーティストの違い、といったレベルでさえも対立を生じさせないという「気配り」においては、当然二項対立は立ちようもない。

一見すると、これは「私が正しくて、それ以外はすべて間違っている」のような独善性とは逆向きのベクトルを持っているように思えるが、その内実はもしかしたら同じようなものかもしれない、という感覚もある。つまり、「二項対立がイメージできない」という地平において両者は共通しているのではないか、という直感があるわけだ。

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アメリカであれば「民主党」と「共和党」というはっきりした軸がある(あるいは少なくともかつてはあった)。一方で、55年体制以降の日本では、そうした明確な軸は醸成されてこなかった(「与党」と「野党」は同じ天秤に乗っているとは言い難い)。

一方で、『啓蒙思想2.0』が示すように、今では「右 vs 左」のような構図ではなく「正気 vs 狂気」のような構図が生まれつつある。この二つもまた同じ天秤に乗っているとは言い難いだろう。

現代はスマートで「なめらか」な社会が目指されつつある。結局それは、いがいがといがみあう二項対立を(表面的に)視野から消してしまうということなのかもしれない。

もちろんそれが表面的にしか消すことができず、潜在的に保有され続け、その結果としてそれらに対処する方法がわからなくなる、ということが大きな問題なのであろうけれども。

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