見出し画像

第十三回 タイムラインにならぶ過現未

時間と行動を扱うツールには、面白い特徴があります。

たとえば、手帳を思い浮かべてください。今日が6月23日だとしたら、それ以前のページに書かれたことは「過去」であり、6月23日のページは「今日」であり、それ以降のページは「未来」になっています。

これらはすべて「記録」ではあるのですが、過去の記録は「結果・実績」であり、未来の記録は「予定・計画」であり、手帳を使うということは、「今」という点を過去から未来に向けて動かすことで、「予定」を「結果」に書き換えていくことを意味します。

■ ■ ■

一日の「やること」を扱うデイリータスクリストでもそれは同じです。

できたてほやほやのデイリータスクリストは、まだ未着手の「未来」を表すものであり、それを(繰り返される)「今」において着手することで、少しずつ実行済みに変えていく、つまり「過去」にしていく、というのがデイリータスクリストの運用でやっていることです。

手帳は一年というタイムラインを扱い、デイリータスクリストは一日というタイムラインを扱っているだけで、その根本は同じなわけです。

一本のタイムラインには、過去と未来が同居しているわけですが、過去と未来は同一の性質を持っているわけではありません。過去は確定された事実であり、未来は未確定の現象です。
*認知的・哲学的・SF的に反論はあるでしょうが、あくまで手帳やタスクリストの記録についての文脈で話を引き受けてください。

■ ■ ■

とは言え、「今」やることを決める行為は、「過去」に影響を受けます。

たとえば、「今日はもう1時間書き仕事を集中してやったから、残りの時間は別の作業をしよう」という判断がなされるとき、過去の行動が「今」(ないしは「未来」)の決定に影響を与えています。

逆に「想定していたよりも作業が進まなかったので、もう30分追加で作業をしよう」と判断されることもあるでしょう。ここでも、結果・実績が今から未来についての決定に影響を与えています。

つまり、一つひとつのタスクは独立的に存在しているわけではなく、ある「流れ」の中にあるのです。だから、「デイリータスクリスト」では、作業済みになった項目を消しゴムで消したり、画面から消したりしない方がいいのです。言い換えれば、過去からの流れを消して、今と未来だけに注目しすぎない方がいいのです。

理知的に捉えれば、一瞬一瞬の決定は独立的になされるべきだと思われるでしょうが、それは有限的な(つまり肉体という実体を持つ)人間を見誤っている考え方です。人間は、コンピュータのプログラムとは違っています。そこにはアルゴリズム(と呼べる何か)が働いているのかもしれませんが、コンピュータのそれと同種のものではないのです。

■ ■ ■

ここまでの話を踏まえた上で、最近の私の「デイリータスクリスト」の運用を紹介します。

私は、大きく二つのリストを作っています。計画のリストと、実績のリストです。

計画のリストは、WorkFlowyで作成しています。一日の最初に作成され、その日の行動のガイドラインとなる(つまり、「未来」を支える)リストです。

画像1

一方、実績のリストは、Evernoteで作成しています。これは「リスト」と呼ぶよりも、日記や作業記録と呼んだ方がイメージが近いでしょう。「今」から着手しようとしていること、あるいは実際にやったことを文章の形で記述していく記録です。

画像2

実際に行ったことは、もはや「動かせない」ものなのに対して、これから行おうとしていることは、いくらでも自由に「動かせる」ものです。そうした性質の違いを、リストを分けることで区別しているのです。

つまり私は、一日の最初にデイリータスクリストを作成し、それを参照しながら「今」やることを決め、そこで行われることは日記(作業記録)に書きつけていく、という運用をしています。

一日の途中で思いついた(しかしその時点では即座に実行することがない)情報については、デイリータスクリストに記録し、改めてそれを実行したり、それについて考える時間がやってきたら、日記(作業記録)に書きつけるようにしています。

このやり方には、転記や二度手間、情報の重複がたくさん潜んでいるのですが、一般的にそれは「アナログツール」において心配されることであり、デジタルツールでは特に気にしなくてもよいものです。転記はコピペで対応できますし、重複があってもデータ量的に問題にはなりませんし、検索で見つけ出せるならアクセスルートは確保できています。

■ ■ ■

デイリータスクリストは、一つのツールの中に、過去・現在・未来が同居するツールではありますが、デジタルであるならば、それらを統一的に扱う必要性は必ずしも高くありません。もちろん、統一的であってもいいのですが、そうでない在り方も許容されています。

では、リストを分けると何が嬉しいのでしょうか。

たとえば、ごく普通のデイリータスクリストの場合、実行済みになったものは薄くなるか消えてしまうのが一般的です。そのように認知的な印象を薄めて、残タスクに意識を向けやすくする狙いがあるからでしょう。

しかし、それが一日が終わった後では、針のような効果を発揮するのです。どういうことかと言えば、「その日自分が達成したこと」が認知的に薄く表示され、「まだできていないこと」が強く表示されるのです。

部下のできる点をスルーして、至らない点ばかりを責める上司は上司失格ですが、一般的なデイリータスクリストの場合、一日が終わった後に「ほら、お前、これできていないじゃないか」と強くアピールしてくるのです。もう、一日は終わってしまったのに、です。これは精神的に堪えますね。

もし、全項目がコンプリートされていればまた違った印象を覚えるでしょうが、たいていのリストは未達成を含むものなので、それが針のように使用者の心をプスプスと刺してしまうのです。

本来、一日が終わったら「実行者」の視点から開放されて、よくできた上司のように達成を評価した方がよいでしょう。視点を変えるべきタイミングです。しかし、強調された未達の項目が、いつまでも「実行者」の視点を引きずらせてしまいます。嫌な気持ちになって当然です。

一方で、日記(作業記録)は、やったことだけが記述されるので、「未達項目」に攻撃されることがありません。むしろ、それを読み返したら「うむ、今日もそれなりに頑張ったじゃないか」という気持ちになれます。

どうでしょう。手間をかける価値があるとは思いませんか。私は思います。とても強く思います。

(つづく)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?