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第七回:インプットではない読書の創造

閉じつつも閉じすぎない読書で行われるのは、「インプット」ではありません。

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パソコン(脳)があり、CD-ROM(本)があり、そのCD-ROMの情報をパソコンにインストールする、という構図ではないのです。

そのような構図であれば、誰がいつ何度繰り返しても同じ結果になるでしょう。しかし、読書は違います。少なくとも、対話的な読書は違います。それは一人ひとりに、一回ごとに、異なった体験を与えてくれる行為です。差異があるのです。

それはたとえば、この本はAさんにとってはわかりやすいがBさんにとってはわかりにくいといった単純なものもありますし、両者にとって一冊の本がまったく異なるように感じられることもあります。その両者が時間的に隔たれたひとりの人間であるとき、それは一番強く実感されるでしょう。

読む時間帯によって、前後に読んだ本によって、一緒に飲むドリンクやかかっている音楽によって、世間の空気によって、読んだ回数によって、得てきた経験によって、著者への好感や纏う権威によって、自分の疲れやひりつくような焦燥感によって、本から読み取れるものは変わってきます。

そう。「読む」とは、情報Xを場所AからBにそつなく移すことではありません。ベルトコンベアに乗せられて、ガタガタと運ばれていく情報を眺めることでもありません。そこには、飛躍があります。

読むことの飛躍

たとえば、「人の心を読む」という言い方をするでしょう。あるいは「時代の空気読む」でも構いません。そうした言葉が含意するのは、情報を符号的に(ビット的に)受信することではなく、むしろ書かれた文字を記号的に解釈する行為です。そして、すべての解釈がそうであるように、そこには推論があり、不確定性があります。揺れるのです。

ごく簡単な実験があります。一定の長さの文章を書いて、それを読み返してみてください。いわゆる推敲です。すると、誤字脱字や変換間違いが高い確率で見つかります。一度推敲を終えて、もう一度推敲すると、さらに間違いが見つかることも少なくありません。しかし、最初に書き下ろしたときや一度目に推敲したときには、そうした間違いに気がつかないのです。

もしこれが、符号的に受信される情報ならば、即座にエラーが出ているでしょう。しかし、人間の「読む」はそうはならないわけです。つまり、私たちは、そこに無いものを補ったり、文脈上適切だと思われる形に(勝手に)変換して、受け取っているのです。それがつまり解釈であり、私たちの「読む」がやっていることです。

別の言い方をすれば、読書は単なる「インプット」を行っているわけでなく、そのたびごとに、解釈による情報の創造を行っています。読むことは、すなわち書くこと(≒情報を生むこと)でもあるのです。

読むという出来事の生起

だからこそ、一人ひとりの読書は異なるわけですし、同じ人であってもそのたびごとに読書の体験は異なるのです。揺れが差異を生み出す。そう言ってもいいでしょう。

よって、本を読み終えたらはいそれで終わり、なんてことはありません。読書はそのたびごとに「出来事」を生起しています。私たちに何かを刻んでいます。

だからこそ、人が日々の出来事を日記に綴るように、読書についても何かしら記録を残していきたいものです。

(つづく)

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