見出し画像

何者問題

宮崎智之さんの『平熱のまま、この世界に熱狂したい 増補新版』に「「何者か」になりたい夜を抱きしめて」という一編が収められている。

若者が抱えがちな「何者かになりたい」という欲求について綴られたエッセイだ。興味深い話題なので、僕も何か書いてみようと思う。

あまい想像力

僕自身は、「何者かになりたい」と思ったことはほとんどない。若い頃は「(会社員にならず)自分の腕で生きていきたい」とずっと考えていて、それこそプログラマーから、パチプロ、バーテンダーやハスラーなど、雇われないで生きていける道を探していろいろ"勉強"していた。

正直「何をするのか」はさほど重要ではなかった。単に「どう生きているのか」が重要だったのだ。だから、可能性のありそうなものを、そのときの興味が赴くままに手を出していた。

そうした中で唯一「これだけはダメだろうな」と思っていたのが、「小説家として生きていく」ことだった。非会社員として一番思いつきやすそうな選択肢だったし、その頃は軽小説から純文学までジャンルを問わず読んでいたので手持ちのスキル的には一番有望だったかもしれないが、それでも「小説家」という選択肢はなかった。

むしろ逆なのだろう。一定程度スキルを持っていると、プロの作家がどれくらい凄いのかがわかってしまう。その域に達するために、何を習得し、何を捨ててきたのかのボリュームがイメージできてしまう。自分にはそんなものは無理だと、すぐに理解できるわけだ。

一方で、ぜんぜんその分野について知っていないと、「これくらいならがんばったらいけそう」という気持ちが湧いてしまう。自分が思い描く「がんばる」が、実際その分野で活躍している「がんばる」とどれだけ距離があるのかがわからないからだ。

無邪気な夢は、あまい想像力から生まれる。

何者とは何者か

ところで「何者かになりたい」というときの「何者」とは何者なのだろうか。すでにゲシュタルト崩壊を起こしそうな勢いがあるが、ここに問題の根っこが潜んでいる。

たとえば、時代劇で「何奴?」というのは誰何のセリフである。誰かが存在しているのかわかるが、その正体がわからない。人物X。その変数の中身を問うのが「何奴?」である。

「何者」も同様だろう。そこには具体的なイメージは伴っていない。むしろ、伴っていないことを表現するのが「何者」という言い方なのだ。だから「何者かになりたい」というのは、何一つ具体的なイメージを欠いた欲望だと言える。

これがもし「ひとかどの人物になりたい」というのであれば、まだイメージはできる。どういう分野であれ、功績を挙げ、周りの人から「あの人はすごい人だ」と認識されたいということだろう。そうした目標を設定できれば、実際に歩みを進めることはできる。

しかし「何者かになりたい」ではイメージが乏し過ぎる。言い換えれば、無限の期待をそこに込めることができてしまう。

残念ながら、人間はそんな曖昧模糊としたものを目標として扱うことはできない。最初の一歩を踏み出すことは叶わず、ただ欲望だけがぐるぐると空回りしてしまうだろう。

社会的な欲望・素朴な欲望

たとえば、ある家に生まれて、その家業を継ぐことがあたりまえ、という社会通念が浸透した環境で生きてきたならば、「何者かになりたい」という欲望を抱くことはないだろう。その意味で、「何者かになりたい」という気持ちは、社会が個人を解放したことによって生まれた欲望だと言える。それ自体は、めでたいことであろう。

一方で、具体的に何になりたいのか、どういう状態を欲しているのか、何を為したいのかというイメージが欠落した状態だと、その欲望は焦りの気持ちを助長し、個人の精神生活に好ましくない結果をもたらす。

だからといって、何かになりたい・何かを為したいという欲望を完全にうち捨ててしまうのはやりすぎだろう。そうした欲望が、マスコミ・広告活動に刺激され、膨らんでいたとしても、一番小さい芽の部分は、その人の芯から芽生えた欲望だったはずだ。

そうした芽を大切にすることは、この現代において「個人的に生きる」上で大切な営みであるように思える。

実際私も、職業的物書きになりたいという欲とは縁遠いところで、Webに文章を上げ続けた結果として、今こうして職業的物書きとして生計を立てている。小説家という形ではないものの、若い頃に「絶対無理だ」と思っていた場所に近いところに落ち着いるのは何度考えても不思議なものである。

たしかに私は「職業的物書きになりたい」という欲望はほとんど無視していた。一方で、ほんとうに素朴に「もっと文章がうまくなりたい」と思い続けていた。たぶん大切だったのはそちらの思いなのだろう。

もちろん、思いさえあればすべてが叶うなんて絵空事を語るつもりはない。才能はともかくとして、運の要素はすこぶる大きい。

それでも。

こういう存在になりたい、近づきたいという気持ちを持ち続けることは、物事の起点になるような気がしている。

たとえそれが立派なものでなくても、社会的に評価されにくくても、「自分の中で、これはあり」と言えるものがあれば、歩みを進める大きな助けになってくれる。

だからまずは自分の欲望を直視することが大切なのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?