第一回:今だからこそ読書について
私は、やっかいな時代に生きています。
あなたは、どうでしょうか。
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■ 第一章 積読リストを作る ■
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なにがやっかいかと言えば情報です。情報がたいへんなのです。
とは言え、インターネットによって情報がたくさん増えたことがたいへんなのではありません。そもそも、アレクサンドリア図書館の時代から、記録された情報は人の一生には多すぎる量が存在しています。その話を今さら蒸し返しても仕方がありません。
情報がたいへんなのは、量ではなく、流れです。流れが変わったことがたいへんさを引き起こしているのです。
大量の情報が、日々、絶え間なく、私たちに向かって流れ込んできます。それらの情報は、玉石混交的に石の比率が高いこともありますが、それ以上にやけに感情的であったり、あるいは巧妙に広告的であったりするのです。
個々人の感情をのせた情報が、ここまで容易に他者に流れる環境を私たち人類は経験してきませんでした。あまりに巧妙な(あるいは巧妙であろうとする)広告情報にさらされる環境も同様です。
そしてその環境は、増長こそすれ、減衰する傾向はみじんも感じられません。
一方で、いかにしてこれらの情報を防ぐのかというノウハウを、私たちの文化はまだ身につけていません。
非常にやっかいな状況です。
積読を止めるな!
永田希さんの『積読こそが完全な読書術である』という格好よいタイトルの本では、こうした状況に対する逆説的な方策が提案されています。それが「積読リスト」を作ることです。
大量の情報に抗するために、積読リストを作る?
さっぱりですね。だが、それがいい! というノリはさておいて少し解説しましょう。
『積読こそが完全な読書術である』では、大量の情報が流れ込んでくる状況を「情報の濁流」と呼び、それをいかに防ぐのかという観点でさまざまな思索が試みられています。そこで出てくるのが、「ビオトープ的積読環境」なのですがこの話は少し後に回すとして、大切なのはそのイメージです。つまり、情報の濁流というものがあり、それを防ぐための防波堤をビルドするという構図です。
その防波堤を、何によって築くのかは人によって選択肢が違ってきます。必ずこれをしなければならない、というものはありません。しかし、「読書」は間違いなくその選択肢に入ってきますし、なんならその中でも、かなり有用な選択肢だとすら言えます。
なぜか。
本連載では、そのことについてじっくりコトコト煮込んでいきます。
(つづく)
おまけ
連載第一回目で、全体の結論を先回りして書いておくと、
「読書はいいものだ」
と言いたいだけです。そのことを徹底的にパラフレーズして本連載では書いていきます。
教養を身につけるため、叡知を磨くため、ビジネス上の優位性を獲得するため。そのようなPurposeとは違った、ある種のVisionが読書にはあります。
それは、本が「誰かによって書かれた言葉」であり、読書とはその本に「個人として向き合う」活動だからです。そのような活動は、現代では貴重になりつつあります。だからこそ、ほとんど当然とも言える「読書はいいものだ」と声高に叫び続けていく必要があると考えています。
では、第二回でお会いしましょう。
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