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頭の中の文章の操作とアウトライナーの操作/偏って見えてしまう偏り

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2021/03/15 第544号

○「はじめに」

ポッドキャスト配信されております。

◇ブックカタリスト 007 アフタートーク&倉下メモ - ブックカタリスト

今週は少なめでしたね。まあ、いつもが多すぎるわけですが。

〜〜〜アクセルの踏みすぎ〜〜〜

毎日服用している薬が一日二錠から一錠に減り、その一錠もなくなることになりました。私はその日(薬がゼロ錠になる日)を「復活の日」と認定し、これまで抑え込んでいた仕事の量を少し戻すことにしました。ぎゅっと絞っていた蛇口をわずかだけ開くように。

結論から言うと、安易な決定でした。というか、愚昧な決定でした。

この手の薬は毎日飲み続けることで、少しずつ効果を積み重ねていくものです。逆に言えば、一日二日飲むのを止めても効果はまだ残っています。つまり、薬を飲まなくなってからの一週間から二週間は、過渡期であり完全に「戻った」とは言い難い状況です。何をどう考えても、がんばるタイミングではありません。

実際、最初の数日はメキメキ仕事ができたものの、その後に少しだけ反動がやってきました。慌てて仕事量を抑えにかかったのは、唯一の賢明さと言えるでしょう。

とりあえずは、3〜4週間様子を見て、そこから徐々にペースを作っていくことにします。

〜〜〜珈琲の偶有性〜〜〜

最近、珈琲を自分で淹れるようになりました。これまではインスタントコーヒーがメインだったのですが、挽いてある豆を買ってきて、自分でお湯を注いで淹れる飲み方にシフトしているのです。

やっていることはごく単純です。豆(粉)をセットして、上からお湯を注ぐ。熱湯にさえ注意すれば、小学生だってできることです。

しかし、そんな単純な行為だからこそ、出てくる結果はマチマチです。まったく同じような味にはなりません。お湯の温度やら注ぎ方などが影響しているのでしょう。

楽しい、と素直に思います。コーヒーメーカーに水をセットして後は待つだけ、などとは違った、「仕事」をしている感じがします。とても心地よい「仕事」です。

アレントもきっと同意してくれることでしょう。

〜〜〜確率は面積である〜〜〜

たまたまYouTubeのトップページでレコメンドされていた以下の動画がたいへん面白かったです。

◇The probability is the area / 確率は面積である Associate Professor Makiko Sasada, Mathematics - YouTube

「確率というものは、面積として考えられる」

何言っているの? と思った方はぜひ動画をご覧ください。学問することの楽しさが伝わってくると思います。

〜〜〜Zenkit Hypernotes〜〜〜

新しいタイプのデジタルノートツールが登場したようです。

◇Zenkit Hypernotes - Experience a new way of collaborative writing.

まだ使い込んではいないのですが、Roam Research的な機能を持ちながら、しかし別のアプローチで情報管理が可能になっているツールのようです。

最近わちゃわちゃこの手のツールが出ていますが、個人的にはまず何かしらのツールを使い込んでみるのが一番だと思います。ある継続的な経験でしか得られないものって間違いなくあるので。

他のツールに手を出すのはそういう経験を経てからでも十分でしょう。

〜〜〜気になっている本〜〜〜

倉下が今気になっている本を三冊紹介します。

『人類とイノベーション:世界は「自由」と「失敗」で進化する』(マット・リドレー)

もうタイトルだけでヒットですね。副題を含めて実に魅力的です。

『新世代エディターズファイル 越境する編集ーデジタルからコミュニティ、行政まで』


中身はぜんぜんわからないのですが、共編著として瀬下翔太さんが参加されているので興味を持っています。

『WHAT IS LIFE?(ホワット・イズ・ライフ?)生命とは何か』(ポール・ナース)

シュレーディンガーにも同名の著書がありますが、別の本です。ノーベル生理学・医学賞を受賞した生物学者ポール・ナースが、「生命とは何か?」について語ってくれる本のようです。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のストレッチ代わりにでも考えてみてください。

Q. 機械でできることを手間をかけてやっていることは何かありますか。

ではメルマガ本編をスタートしましょう。今回は長めの記事が一つ、短めの記事が一つの凸凹コンビとなっております。

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○「頭の中の文章の操作とアウトライナーの操作」

うちあわせCastでTak.さんとお話していると、考えてもみなかったことが口をついて出てくることがよくあります。たいへんエキサイティングです。

とは言え、実際は「考えてもみなかったこと」ではなく、考えていたけれども言葉にはしていなかった(意識の表面において自分が注意を向けていなかった)ことに光が当たっているのでしょう。でなければ、そうした話が展開できるわけがありません。

まるで呼び水のように、対話がトリガーとなり、インサイトの井戸から水があふれ出してくる──きっと、そんな感覚でしょう。

そうした感覚として得られたもののうち、「結局、頭の中の文章を操作しているだけ」が特に面白かったので、今回はそれについて書いてみます。たぶん長くなるので、トイレに行かれる方は今のうちに行っておいてください。

それでは始めましょう。

■「ただ考えるだけ」の困難

最近、バザール執筆法を実践していて気がついたのですが、「ただ考えるだけ」は極めて難しい知的操作です。「ただ考えるだけ」とは、アイデア出しをして、それをアウトライナーに並べ、さてどうしようかと腕組みしながら考える、といった行為のことです。

いかにもありがちな状況ですが、メタ的にその知的作用を眺めていると、中身が空っぽであることに気がつくことが少なくありません。たしかに脳は働き、ブドウ糖をぐんぐん消費しているでしょうが、実質的な知的作用はゼロなのです。考えているようで、考えていないことが起きています。

一方、バザール執筆法は違います。そのプロセスはすべて行為で充填されています。腕組みしながら考えることは、ほぼありません。むしろプロセス中は常に手を動かしています。「文章を書く」という形で。

■「考える」と行為

全体が長くなりそうなので、少しずつ部品を固めながら進めていきましょう。まず「腕を組んで考える」と「文章を書いて考える」の対比が生まれました。

「腕を組んで考える」は、一般的なイメージの「考える」であり、極めて思弁的なアクションです。思索しかない、思索だけで思考を進める。そういうアプローチです。

一方で、「文章を書いて考える」は、文章を書くことを通して思考を進めていくことです。当然そこでは、心象内の(つまり思弁的な)知的作用も起きていますが、それは常に肉体的な動作とセットになっているのです。勘の言い方はお気付きでしょうが、ここには肉体=有限のフックがかかっています。が、そこには触れずに、先に進みましょう。

まず、思考を進めるアプローチは思弁のみで構成される「腕を組んで考える」と、肉体的動作を伴う「文章を書いて考える」がある。これが一つ目の基石です。

■内容だけ考えて書く

バザール執筆法では、文章を書いている際、そこで使う要素の順番を「考える」ことはしません。単に、頭に思いついた順に(それでいて読める日本語で)文章を書いていくだけです。

もちろんそれは「何も考えずに」文章を書くことを意味しません。むしろ、骨子的な役割を果たすアウトラインを使わずに文章を書いているので、自分が今書こうとしている対象(ノートについての本を書いているなら、ノート)について、必死に考えています。文章を書きながら考えているというよりも、文章を書くことを通して考えているのです。

これが一番具体的なレベルの「考える」です。戦争で言えば、「戦闘」レベルの視点の高さです。

ここで二つ目の基石が出てきました。「考える」にも視点の高さによって違いがあるのです。

■ドラフトではないα稿

さて、そのような「考える=執筆」が終わると、α稿ができあがります。α稿は、「自分がそのことについて考えた結果」であり、一見ファーストドラフトと呼べそうですが、実際はそうではありません。文法として誤った日本語が書かれているわけではありませんが、話の整合性が取られていないので、「ドラフト」と呼ぶには値しないのです。

たとえばどこかの段落に「先ほど論じたように」と書いてあっても、その段落の前でそれが論じられているとは限りません。なにせ、文章を書いているときに、「先ほど論じたように」と書きたいなと思ったら、原稿を何もいじらずに、そのまま書いてしまうのがバザール執筆法の肝だからです。

「そのまま書く」とは、今書こうとしている文章より先に「先に論じたように」の内容を書くこともせず、かといって「先に論じたように」という記述を削ることもせず、あたかもそこに論じられた記述があるかのように書き進めていく、ということです。

ジグソーパズルを思い浮かべてください。取り上げた1つのピースが絵柄的に明らかにその場所だと思えるのだけども、すでに並んでいるピースにうまくはまらないときに、すでに並んでいるペースをいじるのでもなく、かといって手に取ったピースをどかすのでもなく、そのまま(つまりうまくはまっていないまま)その場所に置いておく、というのが上記の執筆スタイルなのです。

この段階では「ピースをうまくはめる」ことはたいした問題ではありません。それよりも、一つひとつのピースの形をたしかめていくのが重要なのです。よって、自分が「先ほど論じたように」と書きたくなった、その気持ちを「保存」しておく=文章として書き残しておくことを優先します。

当然そのようにして書かれたα稿は、稿ではあるもののドラフトとは呼べず、不整合な部分がたくさん含まれています。それを直すのが、次なるステップです。

■アウトライナーへの移行

不整合な部分を整合させる過程では、アウトライナーを使います。文章を書き下ろすときは、テキストエディタ(今はVS Code)を使うのですが、いったんツールを替えて、頭を切り替えます。

具体的には、テキストエディタからアウトライナーに全文をコピーし、執筆中に立てていた見出し(たとえば ### hoge のように書いておく)を上位項目として、その下に本文を移動させていきます。地道な手作業です。

原理的に考えれば、原稿の構成は本文+見出し行になっており、それ以上複雑な階層を持たないので、地道な手作業を避けることができます。たとえば正規表現を使って、見出し行以外に行頭全角スペースを挿入し、それをWorkFlowyにコピペすれば、自動的に構造化が行われます。

しかし、そこまでの効率化は求めていません。というよりも、手作業で「見出し」項目を作っていくことが重要なのではないかとすら考えています。その考えの正しさはここでは議論しませんが、とりあえずは見出しに対して本文にインデントを与えていき、構造化を進めます。

見出しの項目(###)はついているけども、そのラベルがないものは、この時点で仮の名前を与えます。そういう名づけの作業も極めて大切です。

なぜか。それもまた「文章を書いて考え」ているからです。

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