見出し画像

第十回:自分という圏を紡ぐ

積読リストから始まった今回の話を少しおさらいしてみましょう。

現代は情報が溢れ返っています。しかも、単なる情報ではなく、私たちを直接的に動かそうとする情報です。つまり、感情や欲求を煽り、消費行動に駆り立てようとする情報(濁流的情報)が秒単位で私たちの目に飛び込んでくるのです。

人間を一つの「現象」だと捉えるなら、私たちはすべての人に共通する本能的・原始的な反応と、個々の人によって異なった言動という二つの領域の統合で成り立っています。

濁流的情報に長くさらされ続けることは、前者の領域を拡大し、後者の領域を縮小することを意味します。私たちはどんどんとマスに(あるいはモブ)に近づいていくのです。やや誇張的に言えば「自分」が無くなっていくのです。

そのような状態を回避し、「個々の人によって異なった言動」の領域を回復させていく試みとして、読書があり、積読リストがあります。

積読リストが育むもの

積読リストは、あなたの興味に沿った本のリストです。つまり、濁流的情報の外にある情報源です。

もちろん、本を「買う」ときに、濁流的情報の影響を受けてしまうことはあるでしょう(それが彼らの仕事です)。でも、それは「買う」までです。物理的であれ、リスト的(情報的)であれ、本を積みそこから読む本を選ぼうとするとき、私たちは濁流的情報から距離を置くことができています。タイムラインから読む本を選んでいるのではないからです。

だからこそリストを作るのです。一冊買ってすぐさまそれを読むのではなく、リストを作り、そこから選ぶようにするのです。「間」を作るのです。その時間的な間(あいだ)が、情報的な間(すきま)となってくれます。防波堤です。

しかしその防波堤は、ウォールマリアのような隙間ない壁ではなく、むしろ膜のようなものです。少しは出入りが効き、サイズの変わる膜です。ある圏(Sphere)を構成する便宜的な境界線。それが積読リストです。

読書が醸すもの

読書も同じです。

黙読で行われる読書は、一時的に外界から精神を切り離して、本の世界に読み手を飛び込ませます。それは、濁流的情報からの離脱であると共に、自分がどんなことに興味を感じ、何を考えているのかを探る探索にもなります。私たちは「現象」なので、それが起こることでしか存在は確認できません。よって、何かを読む(≒情報という刺激が脳に入る)ことで発生した思考を眺めることで、はじめて私たちは自分が何かを考えていることを知るのです。

つまり、本の世界に飛び込むことは、自分自身に飛び込むことも意味します。

しかし、その本が他の人間によって書かれている事実によって、私たちは完全に閉じこもることができません。そこにはいつだって見えない他者性が潜んでいます。私を構成する(つまり、私と私以外を分ける)膜を浸透し、他者の考えが染み込んでくるのです。私は私でありながら、別の誰かに「なる」のです。その結果、私を構成する膜は変質していきます。

そうした相互作用によって発生する圏(Sphere)の内側は、決して可視化できないものの、単純なものにはなりません。実に複雑な反応を引き出してくれます。逆に、怒りに駆られた言動の画一性は、容易にBotでもチューリングテストを突破できるほど単純です。

単純か、複雑か。それが問題だ

ここで、「単純な方が良いのか、複雑な方が良いのか」という疑問が立ち上がってきます。

たとえば、単純な家電製品は複雑なそれに比べれば壊れにくい特性を持ちます。複雑な家電製品は、ダメになったら全体の機能不全を起こしてしまう小さな穴をたくさん持っているからです。そう考えれば、単純なものの方が良い気がしてきます。

しかし、人間の脳や神経細胞はあるルートがダメになると、別のルートを迂回したり、すでにある機能を補完的に利用するように再構成される特性を持ちます。もちろん、人間の脳は複雑なシステムの代表例です。そう考えると、複雑なものの方が良い気がしてきます。

もちろん、答えは適材適所なわけです。もしあなたが軍隊のトップにいるならば、所属する軍人が気ままに行動しては困るでしょう。思想的に単純であることが望ましいはずです。あるいは、怒れる市民を扇動する革命者でも同様でしょう。ある力(≒強固さ)を持たせるためには、内的な多様性を抑制し、単純であることが望ましいのです。

一方で、ワンマン経営を嫌う経営者や、市民の声に耳を傾ける政治家にとっては、そうした抑制された多様性は忌み嫌うべきものです。管理自体はしやすくても、一度間違った方向にかじを切ってしまった場合、その更新は暴走機関車にように歯止めが効かなくなります。つまり、強固さは、決定的で致命的な脆さを持つのです。

人間の脳や生物の生態系は、そのような強固さを持たない限りに、損なわれた状況を復旧するための機構を持ちます。むしろ、強固さの喪失は、変化の可能性であり、その可能性が復旧機構として機能するのです。別のものに「なれる」ならば、穴は埋めれるわけです。

それが答えだ

よって、「単純な方が良いのか、複雑な方が良いのか」の答えは、あなたが何を欲しているかによって変わってくるでしょう。一つの理念に燃え、それ以外はいっさいどうでも良い、と生きたいなら単純な方が適応的です。一方そうでないのなら、つまり、多様性を重視し、他者を思いやり、アイデアに溢れ、他者とは異なる自分の圏を育んでいきたいなら、複雑な方が望ましいでしょう。

もちろん、上の段落の書き振りからして、私が後者を望ましいと考えていることは明らかです。どれだけ公平に書こうとしても、やはりここには私なりの偏り(偏向)がにじみ出てきます。割り切れない気持ちが出てきます。言うまでもなくそれが私という「現象」なのです。少しだけ複雑な。

(つづく)

▼参考文献:


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?