見出し画像

ビジネス書が置き去りにしてきたもの/人文的実用書に向けて

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2021/07/19 第562号

○「はじめに」

ポッドキャスト更新されております。

◇BC016 『英語独習法』 - by goryugo - ブックカタリスト

今回は、英語学習の本です。少し前に、倉下が取り上げようとしていたけどもなかなかその機会がないままに時間が経ってしまった本をごりゅごさんが取り上げてくださりました。

一度読んだ本ではあったのですが、改めて話を聞いてみると、結構忘れている内容が多かったです。読んだ本の復習にもなるブックカタリスト。Goodですね。

〜〜〜見本到着〜〜〜

7月23日発売予定の新刊の見本が到着しました。ちなみに本の見本って、「見本」でよいのでしょうか。それとも「見本本」? みたいなしょーもないことを考えつつも、やはり自分が書いた原稿が「本」という物になるのは嬉しいものです。

ノートをテーマにした本で、そのデザイン(意匠)もノートがテーマになっております。こればかりは、実際に本を(おそらくは紙の本を)手に取っていただくしかありません。

(買わないまでも)書店で見かけたら、ぱらぱらと中身を覗いてみてください。

〜〜〜かーそる第四号〜〜〜

前号でも書きましたが、かーそる第四号がいよいよ完成間近です。具合によっては、新刊の発売日にかーそるの発売日をぶつけることすら可能かもしれません。

いやでも、一緒に買っても一気に読めるわけではないしな〜、という気持ちと、自分の中にある「どうせ買うなら、二冊とも買おう」という消費者意識が戦って、マーケティング的答えをうまく出すことができません。

これはきっと、一般的な書き手の方はなかなか直面しないような問題でしょうから、文献を漁ったところでヒントになるようなものは見つからないでしょう。

あとはもう、勢いと出たところまかせしかありませんね。

〜〜〜悲惨な夢〜〜〜

夢を見ました。悲惨な夢です。

あっ、新刊にアマゾンレビューがついているぞ、と確認したら星5の3倍くらいの数の星1つがついていて、そのすべてがコメントなしの星1つです。「いったい、どうせよと……」と暗雲たる気持ちのまま目が覚めました。

でもって、そういうことが現実に起こりうるのが怖いところです。

〜〜〜新しいアプリ〜〜〜

まだβ版のようですが、新しい感触のアプリケーション(ツール)が出ています。

https://kakau.app/

現状、適切な言語化はできないのですが、新しい思想を持った情報入力ツールだ、という感覚をバシバシ受けています。アウトライナー的なこともできますが、おそらくこのツールが見据えているのはそれとはまた違った情報「処理」の方向性なのでしょう。

今後の開発が楽しみです。

〜〜〜言い表しがたい関係性〜〜〜

10年以上もTwitterを使っています。で、フォロー関係になっている人の中には、直接リプライを送ることはまずないけれども、ごくごくたまに「いいね」を押すくらいの「間柄」の人が結構います。そういう人たちの関係性って、なんて呼べばよいのでしょうか。

「知人」ではありませんし、「顔見知り」ともちょっと違います(せいぜいアイコン見知りとか、アバター見知りでしょうか)。雰囲気としては、毎日の通勤の電車で顔を合わせる人とか、職場近くの喫煙スペースで昼食後の休憩時間にいつもいる人、みたいな感覚ですが、そういう人たちよりは相手のことを(相手の日常を)知っているのが違いです。

なんとなくお互いのことを、漠然とは知っている。でも、リアルな状況のことはぜんぜん知らない。でも、やたら細かいことは知っていたりする。

そういう関係性を表す言葉は、まだ日本語にはないのでしょう。これからできるのかすら、わかりませんが。

〜〜〜古くて新しい書き方〜〜〜

ちょっとした実験として、iPadで文章を書いてみました。といっても、テキストエディタにキーボードで入力するのではなく、手書きノートアプリにApple Pencilで描くのでもなく、手書きノートアプリにキーボードで入力するのです。

具体的には、手書きノートアプリの「GoodNotes 5」のテキストボックスを使います。

まずテキストボックスを挿入して、そこにテキストを打ち込む。改行のかわりに、新たにテキストボックスを生成し、そこに文章を打ち込む。そして、よい按配のところにそのテキストボックスを配置する。そういうやり方です。

あたり前ですが、まったく効率のよいやり方ではありません。一つの行を入力するたびに、テキストボックスの「配置」が必要となってきます。一応iPadなので、その操作は指でできますが、だからといって手間がかからないわけではありません。入力、配置、新規作成、入力、配置、新規作成をゆっくり繰り返しながら、執筆が進んでいきます。

で、気がつきました。私は実際に使ったことはないのですが、これはけっこう「タイプライター」的だなと思ったのです。文字をタイプして、改行のかわりに紙を少し上に送る。そのような操作を挟みながら文章を書いていく点がとてもよく似ています。

あと、テキストエディタの場合は、単に文字列をファイルに書き込んでいるだけですが、Wordなどの場合は、文字の入力がレイアウト的配置と直結しています。それと同じで、「GoodNotes 5」のテキストボックスの配置も、writeだけでなくprintしている感覚があるのです。

もちろん、こんな面倒な作業を執筆の基本スタイルにするつもりはありませんが、それでもテキストエディタで書く行為の気分転換としてはなかなかよさそうな感触があります。

〜〜〜静かなWorkFlowy〜〜〜

いろいろな情報整理ツールを使った後、WorkFowyに帰ってくると、実に「静かな」感じを得ます。たくさんのメニューが並んでいるわけでもなければ、サイドバーが存在を主張してドドーンと迫ってくることもありません。画面の中にはアウトラインしか並んでいない。実に認知的に静かです。

そういう静けさは、アクティブな機能というよりは、「邪魔なものがない」というパッシブな機能なので、あまり目立たないかもしれません。というか、普段使っているときはそういう静けさがあるとも気がつかないものです(それが静けさということです)。

しかしながら、毎日毎日使うツールに関しては、そういう静けさはものすごく便利な高機能よりもはるかに高い価値を持っていると個人的には思います。アウトライナーもいろいろ試しましたが、やっぱりWorkFlowyが一番落ち着きます。

〜〜〜テキストボックス〜〜〜

以下のツイートに触発されました。

自分専用のサイトmd.private作成にまつわるあれこれと文書管理について - 結城浩の連ツイ

なかなか面白そうなシステムだと思い、自分でも作ってみたのです。

と軽く書いていますが、ローカルサーバーを立てて、そこにWebページを準備し、そのページからcgiを実行して、自分のローカルファイルを操作できるようになるまでにWebの大海を泳ぎまくり、カウントできないくらいのエラーに遭遇したことは言うまでもありません。プログラミングをやっていると、そういう我慢強さが身につくのはメリットですね。

とは言え、実装できたのは本当にごくごく初歩的な機能だけです。Webページのボタンをクリックしたら、VS Codeで所定のテキストファイルを開く、というこの段階では何の役に立つのかさっぱりな機能です。しかし、それを実現するために、Pythonのコードを実行させることができているので、あとはそのコードであれやこれやを実装すれば、ムフフな環境が実現できます(曖昧)。

とりあえずそのプロジェクトは、暫定的に「テキストボックス」と名づけられました。今後ちまちまと開発していこうと思います。

〜〜〜Q〜〜〜

というわけで、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので頭のウォーミングアップ代わりにでも考えてみてください。

Q. 日常的に使う情報ツールには、どんな機能があったら(あるいはなかったら)よいと思いますか。

では、メルマガ本編をスタートしましょう。今回は、「人文的実用書に向けて」シリーズの第三回です。

画像1

○「ビジネス書が置き去りにしてきたもの 人文的実用書に向けて」

ここまでの流れを振り返っておく。

まず、本がヒットするためには目立つことが必要で、口コミはその中でも重要という点を確認した。次いで、口コミは読者にギフトを与え、読者自らが「受け取ってしまった感」を覚える形で生まれるものがもっとも強いという点も確認した。

もちろん、本はどのように書いてもよい。どう書いても──内容は別にして──その書き方が間違い、ということはない。短期的に消費されて後はどうなっても知らないという書き方も倫理的に間違っているわけではない。ただ、そのようなコンテンツの作り方は、本よりももっとずっと手間がかからないメディアで展開した方が「効率的」であることは間違いないだろう。わざわざ本を書くのだから、本というメディアの特性、つまり残ることを意識したほうが適材適所ではあるだろう。

一応、マトリクス的に考えておくと、残る本・残らない本と売れる本・売れない本による四象限を想定できる。

・残るし売れる本
・残るが売れない本
・残らないが売れる本
・残らないし売れない本

もちろん望ましいのは一番上だろうし、極力避けたいのは一番下だろう。ビジネスライクに考えれば、「残らないが売れる本」を短期のサイクルで生み出し続ければ、利益を最大化できそうだが、しかしそもそもその「売れる」という事象自体が制御不能なものであった。よって、書き手が何か注意を向けられるものがあるとすれば、それはやはり「残る」本だろう。

たくさんの本は、自動的に残るわけではない。さまざまな場所で選別が行われていて、「これを残そう」と思うものが残っていく。国会図書館のような場所はレア中のレアであって、それ以外の場所では本は常に選別のまなざしに晒されている。

そうした中で、読者の心に残っている本は、本棚にも残る可能性が高い。そうなると、「売れる」可能性も出てくる。いや、本棚に残らなくなってしまったら、「売れる」可能性はゼロになる、という方が正確だろう。

だからまあ、残ることは大切である。株式投資においても重要なのは「退場しない」ことだ。一か八かの賭けをして資金をゼロにするのではなく、損切りをしてでもしぶとく資金を残し、新しい可能性に賭けられるようにしておくこと。そうした可能性を担保するためにも、読者の心に残る本を書こうとする行為は必要である。

つまり、読者にギフトを贈ろうとする行為は、ビジネスの視点からも肯定できるのである。

■圧倒的な物足りなさ

さて、ここでビジネス書の話に戻ろう。最近のビジネス書コーナーに並ぶ実用書に心躍ることが少なくなってきた、という話題だ。言い換えれば、心に残らなくなってきたのだ。

そもそも書店に並んでいる表紙やタイトルを見ても手に取ろうとは思えないし、気まぐれに手に取った本の目次や内容をパラパラと眺めていても「これ!」という感じはしない。もうこの段階で「買おう」とすら思えないのだ。

私が興味を持つ分野の本であれば、「えいや」と買ってみることもあるが、読み終えるまでの時間はただただ苦痛でしかない。

別に間違ったことが書いてあるわけではないし、文章が下手くそというわけでもない。ただただ圧倒的につまらないだけである。

たしかにそれらの本は、「わかりやすい」のかもしれない。あるいは、綺麗に理論が構築されているのかもしれない。しかし、そういった要素はつまらなさを解消はしてくれないし、逆効果であることすらある。

これは極めてまずい状況だと言えるだろう。なぜなら「本」はつながっているからだ。一冊の本への評価は、その本の評価だけに留まらず、ある種の外部性を持っている。

たとえば、わかりやすいけどつまらない本は、心に残らないばかりか、マイナスの印象が残ることもある。そうなると、読者は実用書というジャンル全体にマイナスの印象を持つかもしれない。もしそれがはじめての読書であれば、本というカルチャー全体に不信感を覚えることすらある。

そのようなことが広範囲で発生すれば、本の売れ行きがよくなることは考えられない。むしろ徐々に悪くなっていくだろう。特に現代では、実用的ノウハウを伝える媒体は書籍以外にもたくさんある。ある種の「わかりやすさ」で言えば、そうしたメディアの方が優れていることすら珍しくない。

そんな環境において、「おもしろくない本」を一体誰が手に取るだろうか。お金を払って買おうと思うだろうか。もし、書店に「わかりやすいが、おもしろくない本」が溢れ返っているならば、そうしたジャンルの売り上げは厳しくなって当然である、というのは決して言い過ぎな表現ではないだろう。

■誇大な表現

売り上げが厳しく、殺伐とした環境になってくると、「売るための工夫」が度を過ぎたものになることは十分考えられる。「北斗の拳」などで描かれる荒廃した社会では、「ヒャッハー」と言いながら武器を振り回す輩がはびこっているが、それと似たようなことが起こるわけだ。

簡単に言えば、「誇大広告」である。

販売部数を押し上げるための業界の闇、みたいな話はここでは言及しないが、そういうややこしい話を持ち出さなくても、「極端な話」がビジネス書にはびこっている現状は簡単に確認できる。たとえば少し前までは「hogehogeは××が8割」みたいなタイトルが多かったのに、その割合が少しずつ増えてきて、最近では「hogehogeは△△が10割」にまで到達している。

たしかに、8割より10割の方が「すごそう」だし、「わかりやすく」もある。キャッチーだし、インパクトもあるのだろう。しかし、それはあまりに極端な表現であろう。度が過ぎた単純化であろう。

特に努力しなくても××ができます、hogehogeをしているだけで成果が得られます、といった「効能」を謳う本たちは、悲しいくらいに事象を単純化しているし、読者の現実を置き去りにしている。

注目して欲しいのは、『独学大全』はそのような効能を謳っていなかった、という点である。そんなに簡単にはいかないですよ(でも、少しずつなら進んでいけますよ)というのがあの本の全体的なメッセージである。そういう「わかりやすく」はない本の方が、ヒットしているのである。

このことをビジネス書界隈は注視すべきであろう。

別に「すごくない」話をしなければならないということでもないし、あえて難しい話をしろというのではない。単に、読者を置き去りにしないというだけの話なのだ。

たとえば、「努力しなくても××ができます」と謳う本を読んでやってみるとする。しかし、それができないとしたらどうなるだろうか。その本が、「これは誰にでもできます」と謳えば謳うほど、それがうまくいかなかったときの読者が受ける精神的ダメージは大きくなる。普遍で、平易で、汎用であることを主張するほど、そうできなかったときに自分の劣等感が刺激される。そういうことが起こりうるのだ。

なにせそのノウハウは「誰にでも」できるはずなのだ。それによって成果を手にできると著者は自信満々に主張しているのだ。それができない自分は、その「誰にでも」にすら入らない劣った人間なのだろう、という推論が働くのは止めがたい。

そうした本たちはこう言う。「あなたは困難を抱えていますね。でも大丈夫。Aがあればバッチリです。そのAは誰でもできます。つまり、あなたは困難を簡単に乗り越えられます」

しかし、そのAがうまく実践できないのだとしたらどうだろうか。第一に私は「誰でも」にすら入れない存在だということになり、第二に抱えている困難がもはや解決できないものになる。行き止まりである。はたしてその状況は、その実用書が目指した状態なのであろうか。

つまり、誇大に効能が謳われるビジネス書・実用書は、その誇大さに問題があるのではない。現実の読者を置き去りにしていることが問題なのだ。

なぜそれが問題になるかと言えば、それが「実用書」だからである。実用書は、実践のために書かれている。そして、実践には常に「人」がつきまとう。人間抜きの実践などありえず、実用の中心には常に「人」がいるのである。

誇大な実用書は、その人を置き去りにする。ノウハウを中心に据え、そのノウハウをとことん「持ち上げる」。結果として、実践できない人が大量に残されてしまう。

それが理論的な遊びであるならば、どれだけ誇大であっても問題はない。どれだけ妄想をふるっても構わない。読む人も、それが実践できるものだとは受け取らないだろう。

一方で、それが実用書として語られるならば、当然それは実践可能なものとして受け取られる。あらゆるレトリックがその実践へと吸収されていく。ある程度の強調ならば「誤差」で済んだものが、その閾値をこえて吸収できない齟齬として残ってしまう。

そのとき、本の内容が否定できなければ、自分自身を否定するしかない。そして、実用的なノウハウを必要としている人ほど、本の内容は否定できないのである。

(下につづく)

ここから先は

6,351字 / 1画像 / 1ファイル

¥ 180

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?