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第七回:理想は理想的なのだろうか

理想の理想性について考えましょう。

たとえば、理想的な一日を思い浮かべてください。なんだって構いません。私なら、だれにも邪魔されず一日中執筆に時間を使えるとか、あるいは読書に没頭できるとかいった一日になるでしょうか。そのような一日が訪れたら、実に素晴らしい気がします。

では、その日がずっと続いたらどうでしょうか。死ぬまで一生続いたら。

きっと私は退屈を覚えてしまうでしょう。そこにあるのは、単調さであり、常に予測可能な事態です。

あるいは、極端な例を考えることもできます。家に引きこもっている人が、そのままずっと引きこもり続けたいと願ったら。あるいは、意欲的に働き続けている人が、そのままずっと働き続けたいと願ったら。

それは本当に「理想的」なのでしょうか。ある一つの「理想」に閉じこもっているとは言えないでしょうか。自閉的に。

誰から声をかけられることで、未知なる作品と出会う。仕事と関係ない博物館を訪れることで、新たな価値観が目覚める。そうした行為は、当初イメージした「理想」にはまったく含まれていないかもしれませんが、一度経験されてしまえば、それが新しい「理想」として取って代わる可能性があります。

引きこもっている状態(非活動的な状態)の自閉さはイメージしやすいでしょうが、活動的な状態でも実は同じなのです。活動の多くは外部との接触を伴うので、なかなか「自己の理想」に閉じこもることはできませんが、それでも似たような生活を繰り返して、外部性をことごとく排除していたら、引きこもっているのと変わらない状態になるでしょう。

ある狭い「理想」の中に留まり続けるのです。

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理想通りにいかないことには、もちろんいらつきもありますが、それは可能性でもあるのです。この点は、情報におけるノイズが、アイデアの創造に役立つことに似ているでしょう。シグナル(=ノイズではないもの)ばかりだと、新しいものは何も生まれてこないのです。

デイリータスクリストを作ると、本線が生まれ、それに付随して脱線が生まれます。デイリータスクリストに掲載されている作業が本線で、それ以外の作業が脱線です。この脱線を抑制したり、そこからの復旧をはやめられるのがデイリータスクリストの一つの意義でした。

しかし、この脱線は、本線があったからそう呼ばれるに過ぎません。それを本線だと任命する審級がひっくり返るとき、脱線が本線となり、本線が脱線となります。価値観はゆらぎ、解釈は裏返るのです。

つまり、当初は「理想的」でなかった行為が、新たな理想として立ち上がることが起こるのです。別の言い方をすれば、「理想 vs 現実」という構造が脱構築されていくのです。

日々の実践による脱構築。それが、デイリータスクリストを運用しているときに起こることです。

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デイリータスクリストを作ったとき、片方に理想があり、もう片方に現実があって、デイリータスクリストはその二つをなんとか「妥協」させていく試みだと思われるかもしれません。

たしかに、そうした側面がまったくゼロであるとは言いません。しかし、打ち立てた理想に現実をぶつけていくことには、妥協以外の、もっと大切な価値があります。それが、新しい理想へとたどり着くことです。

「理想 vs 現実」の構造を脱構築して、新しい「理想」を打ち立てること。それは、朝一の自分が気付いていなかった「理想」なのかもしれません。少なくとも、ある段階の「自分の理想」に閉じこもっていては、開けることのできなかった扉がそこにはあります。

そのことを確認したら、一日の最後にできあがるタスクリストは決して無残なものではなく、理想と現実がぶつかり合った妥協の産物でもないことがわかります。むしろ、そのリストは次なる一歩を示すものです。

新しいあなたの一日の一歩を。

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