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仕事もまたノートからはじまる / コンビニ店長時代のノート

コンビニ店長として働いていたとき、たくさんノートを書いた。スタッフとの情報共有にノートを活用した話は『すべてはノートからはじまる』でも紹介したが、自分のための仕事用ノートもたくさん書いていた。

2008年頃だとようやくEvernoteがスタートした、という段階でデジタルツールの機運はまったく高まっていなかった。情報を残すと言えば、すなわちノートだったわけだ。それに当時のノートパソコンはおせじにも取り回しがよいとは言えなかったので、実際的な判断としても紙のノートが一番だったように思う。

仕事ノートには、仕事に関することならなんでも書いた。ノートは、書きつけることをいちいち選別しないのがポイントである。とは言え、店長の「仕事」とはマネジメントであり、それはつまり「店舗・商品・スタッフ」がうまく機能するように舞台裏を整えることが任務であることを意味している。そのための情報をせっせとノートに取っていた。

売り込みたい新商品があれば、それを一つの「プロジェクト」だと考えてノートを書いた。必要な情報を集め、自分の考えを書いた。本部から送られてきた情報をプリントアウトし、糊で貼り付けるなどして「一元化」を試みていた。今ならEvernoteでするっとできることだ。昔はいろいろ苦労していたわけである。しかし、その苦労の価値はあったように思う。

販売実績も、お店のストコン(ストア・コンピュータの略)でデータを表示させた上で、ノートに書き写した。手書きでちまちまと書き写した。その上で、その結果を分析し、それをノートに書いた。

自店の販売上の工夫などは写真に撮って残しておいた。

ストコンの販売データ表示は極めて便利であり、それをいちいち自分のノートに手書きで移すのはバカげているかのように感じられるが、体感としてはそうではない。おおむね販売データはデータを表示して終わりであって、そこに自分なりの考察を書き込むことはできない。そこにはデータだけしかなく、「自分の考え」が入り込む余地はない。

しかし、ノートは違っている。ノートは、データを出発点として自分の分析を書き込むことができる。

本部から送られてくる新商品の情報も同じだ。たしかにそこには情報がたくさん詰まっているが、その情報について自分がどう考えたのかを残すことができない。そういうものは「自分のノート」ではないのだ。

単にデータを右から左(あるいは上から下に)流すだけならば、マネージャーの仕事など必要ない。そこにある情報を分析し、自店にどう活かすのかを考えるのがマネージャーのマネージャーたる仕事である。だからこそ、考察やら分析が必要なのだ。

「自分のノート」は、そうしたものをまるっと集められる。つまり、外部にある一般的情報と、身の回りにある実際的情報と、自分の頭の中にある分析的情報を、一つの場所に集約できる。それがノートのノートたる所以であり、存在価値でもある。

一見すると、その効能は「効率化」に思える。バラバラに散らばっている情報が集まっていると便利だよね、という話だ。しかし、そうではない。そうした情報の集約化によって、考えが「一つ上」に進むことができる点が効能なのである。

たとえば本部が提示するデータと、自店の販売実績が異なるならば、そこから何かを──たとえば自店の立地的な特性を──考えることができる。その思考はデータがバラバラに散らばっているだけでは、なかなかトリガーされないものである。なぜなら、人間の思考は、まずインプットによって駆動するものだからだ。目に入る情報が、重要なのである。

集約化の意義はその「目に入る情報」を変える点にある。

と、少し難しげに語ってしまったが、単に私がノートに情報を集め、それについて考えるのが好きだからこういうことをやっている、という点は間違いない。別に誰かから強制されたわけでもないし、偉人の方法を真似したわけでもない。自分がそういう情報が必要だと感じたら、コツコツノートを取っていただけである。

人生の歩みをランダム化対照実験することはできないので、別のノートの書き方をしていたり、あるいはノートを取っていなかったりしたらどうなっていたのかはまったくわからないが、それでもこうしたノートを書いてきたことは、仕事を地道に進める手助けにはなってくれたような気がする。基礎工事ができている建物のような安心感があるのだ。

なんにせよ、頭だけで進めるには、現代の仕事は難しすぎることは間違いないだろう。

仕事もまたノートからはじまる。

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