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『人を賢くする道具』「第9章 ソフト・テクノロジーとハード・テクノロジー」のまとめ

この章には何が書かれているのか?

人間が得意なことと機械が得意なことは異なる。ごく当たり前の話だが、テクノロジーのデザインが機械中心になると、人間が劣った存在として扱われ、そのうえ機械に合わせるように求められる。

もともと得意なことが異なるからこそ機械が作られたはずなのに、その機械に合わせて人間の知的処理がゆがめられるのは好ましいことではないだろう。

テクノロジーは、「オートメイト」(自動化)として機能するようにデザインされる場合もあれば、「インフォメイト」(情報化)として機能するようにデザインされる場合もある。

前者においては、人間は不要な存在だ。そこでは人間の主体性や自律性といったものは必要とされないばかりか邪魔なものですらある。そうしたテクノロジーに囲まれると、たしかに楽ではあるのだが、人間がもともと持っている意味解釈や物語生成といった機能も阻害され、生きている意味を見失うことも起こりかねない。

一方で後者は、人間の意思決定をサポートするためにテクノロジーがデザインされる。当然そこでは人間は必要な存在であるばかりか、むしろ前提ですらある。人間からの関与が求められ、それが私たちのエージェンシーを育んでくれる。

機械があり、その機械に合わせるように人間が頑張らなければならないもの(=融通が効かないもの)をハード・テクノロジーと呼ぶならば、人間に合わせて調整され、頑張ることなく使っていけるものはソフト・テクノロジーと呼べる。

パロアルト研究所の「ラピッド」というテクノロジーが紹介されているが、まさに最近の生成AIはこうした「人間的な使い方」ができるソフト・テクノロジーになりつつあるのだろう。

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