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番外編 叛逆のタスク管理

"「タスク」を書こうと思えば、この「思い」を頭の中で翻訳しなければならない。これは意外に頭のリソースを消費する。ならば「思い」をそのまま書いてしまった方が楽ではないだろうか。"

タスクリストを作るとき、私たちはこの翻訳をいつも行っています。「ニンジンを買う」というタスクは(たいてい「ニンジン」と書かれますが)、その背景に「今日はカレーを作りたいので、足りない野菜としてニンジンを買う」という思いを持っています。

あるいは、「絶対ではないけど、いけたら図書館に行きたい」という思いもあります。これが「図書館に行く」(あるいは「図書館」)というタスクに翻訳されるわけですが、もともとの思いに含まれていた機微はばっさり削ぎ落とされます。その削ぎ落としこそが箇条書きの要なのですが、必ず良い結果をもたらすわけではありません。

そもそも私たちがリストなどというものを作るのは、私たちが忘れる存在だからです。箇条書きで削ぎ落とした結果、当初持っていた思いもまた忘却の彼方に消えてしまう可能性があります。それを是とするかどうか。

GTDにおいて、「絶対ではないけど、いけたら図書館に行きたい」という機微をうまく捉えられるリストはデフォルトには存在しません。拡張的に、「絶対ではないけど、できるならやっておきたいこと」リストを作るか、あるいは「Someday/maybe」リストに無理やり入れてしまうくらいでしょう。だってこれは、どう考えてもNext Actionではないのですから。

マニャーナの法則なら、このタスクは間違いなくデイリータスクリストには記載されません。「今日でなくて良いことは今日やらない」がポリシーだからです。

業務は遂行するものであり、いつかは絶対にやらなければいけないことなのですから、この方針は見事に機能しますが、「絶対ではないけど、いけたら図書館に行きたい」のような、不要不急の行動を扱うには向いていないわけです。

「頭のリソースを消費する」点で言えば、「絶対ではないけど、いけたら図書館に行きたい」という思いは、常に決断を迫ってきます。つまり「いけるのかどうか」と、いけたとして「いくのかどうか」です。

さまざまなタスク管理手法は、判断や決断をあらかじめ行っておき、実行時には極力判断から遠ざかることで、極力実行に頭のリソースを注げるように配慮しているわけですが、だからこそ、「絶対ではないけど、いけたら図書館に行きたい」のような扱いがやっかいなものは、翻訳というよりもむしろ変換して扱われることになります。

だからすごく疲れるのです。少なくとも、一定の規範性がずっと機能しているようなタスク管理に比べれば、ちっともストレスフリーではありません。

それもこれも「思い」を残しているからです。その「思い」さえ断ち切ってしまえば、もっとずっと楽になれるのです。しかし、そうしない選択をしています。

"みたいなタスクを書いたことがあるなら(ぼくはある)、本当は「思い」を書く場所が必要だということだ。「思い」を書こうとすれば、それは自ずと文章(的なもの)になる。"

なぜ「思い」が必要なのでしょうか。どういうときに「思い」が必要となるのでしょうか。

先ほど確認したように、私たちは忘れてしまいます。やろうとしていた行動だけでなく、それを生み出すことになった思いすら曖昧になっていきます。

タスクは「実際に取れる具体的な行動」です。しかしその具体性は行動のレイヤーで立ち上がるものでしかありません。そのタスクが、「実際に取れる具体的な行動」として(箇条書きで)リストに書きつけられるとき、そこには独自の抽象性が帯び始めます。あるいは、「思い」という文脈の剥離を抽象性と呼ぶのかもしれません。

そうした「思い」を剥離するからこそ、タスクはタスクリストの中で自由に振る舞えます。今日書き込んだタスクを、明日のリストに移し替えることができるのです。その裏にある「思い」を配慮すれば、二つの日付のタスクは異なる存在だとしても、それを同じものだと扱えるのです(それが抽象性ということの意味です)。

タスクが、タスクとして書き留められた瞬間、それは「私」という存在から独立したオブジェクトとなり、独自の具体性と抽象性を獲得します。その抽象性が機能するのは──つまり、二つのタスクを同一の存在として扱えるのは──、タスクと結びついた「思い」が同一だと過程できるときだけです。

言い換えれば、私たちはタスクをタスクとして扱うことで、「思い」を(敷延すれば、自分という存在を)変化のないものとして同定していることになります。タスクがタスクとして機能するとき、昨日のタスクと今日のタスクが同一視できるとき、今日の私は昨日の私と変わりないという前提を受け入れているのです。むしろ、そうした要請が発生しているとすら言えるかもしれません。

より正確に言えば、そのタスクに結びついている「思い」が変質していないとき、タスクはタスクとして(時を超えて)機能すると言えるでしょう。

もし、人の「思い」すべてが心の中で独立的に存在しているなら、タスクはずっと扱いやすいものになったのかもしれません。しかし、さまざまな思いは(階層的かネットワーク的かあるいはその混合かで)つながっており、何かしらの変化が、さまざまなタスクに連なる「思い」を変質させていきます。

作ったばかりのときはあれほど親密な感じを覚えたリストが、数日経つとあたかも他人のような冷たさを持ち始めるのはこのためです。リストが変質したのではありません。リストは(そして言葉は)変わらずにそこに鎮座しています。変わったのはあなたです。あなたは、あなたという視点の中心点なので変わった感覚はないでしょうが、変わらないはずのリストによそよそしさを感じているのがその変化の証拠です。

そして、私たちは「思い」を忘れるのでした。「図書館に行く」というタスクだけでは、単に行ったか行っていないかの判断しか下せませんが、「絶対ではないけど、いけたら図書館に行きたい」という思いとセットであるならば、その記述に検討を加えることができます。さて、今日の自分はどうだろうか、それほど行きたいわけではないな、と。

だったら、改めてその「思い」と共に何かを書き込めばいいのです。ビジョンを踏まえて、新たなビジョンを描けばいいのです。

"ではタスクのアウトラインの場合はどうか。ついついタスクそのものがディテールだと思ってしまうし、最近までぼくもそう思っていたのだが、たぶんそうではない。この場合のディテールは、そのタスクを実行するに至った背景とそれに対する「思い」の方なのだ。タスクはむしろ「思い」につけられた見出しのようなものだ。"

たぶん、私たちはこの「見出し」を立てるのがすごくヘタなのでしょう。だからときどき、とんちんかんな見出しを立ててしまいます。そっけない言葉や、手あかにまみれた表現を使ってしまい、そこにある「思い」を損なってしまう、大きくズレて翻訳してしまう、そういうことがあるのでしょう。

実際の翻訳が難しいように、もともとの文に含まれていた機微やニュアンスをうまくすくい取れないままに言葉に移し替えてしまうのです。

そのような表現のズレ、構造のズレが、だんだんと私たちをタスク管理から遠ざけてしまいます。いかにも無機質な感じ、冷たい官僚制度のにおいが漂ってくるのです。私が私を管理しているはずなのに、何か別のものによって管理されているような気持ち悪さが漂うのです。

"「思い」はそうした判断の根拠になるのだ。だからこそタスクと「思い」はいっしょに扱いたい。ぼくがタスクでもToDoでもなく「DO」と呼んでいるものは、具体的な行動と「思い」が結合したオブジェクトだ(結合した状態で操作できるのがアウトラインの階層構造だ)。"

タスクと「思い」を一緒に扱うことだけが解ではないと思います。しかし「思い」を軽んじない方が良いことは確かでしょう。

もちろん、ただ「行動」だけを見ていればよく、それ以外のことは気にしないという態度もありえます。「思い」などという不定量なものには触らずに、実際に扱える情報だけを注視するのは一つの科学的な態度ではあるでしょう。しかし、別の態度があってもしかるべきだと私は思います。

あるいはこの考え方は、「言われたことを文句も言わずに黙々とやる」を是とする会社人間的世界観では、ほとんど意味不明であるでしょう。あらゆる「思い」は抑圧して、上部構造たる「会社」からの命令に、疑問を挟むことなく(つまり、判断を停止させて)従うことが至上であるならば、タスクはただタスクだけで書かれていれば十分です。

そう。だから、この考え方は叛逆なのです。明らかに旧世代的な世界観に対する、我々からの叛逆です。人は「思い」と共にあり、意志を持つ存在である、と。

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『Re:vision』連載では、互いに書いたことについてできるだけリアクションしないように進めてきましたが、かなり思うところがあったので、今回は番外編ということで記事を書いてみました。

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