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信頼度マップの描き方

何かを知っていると得することは結構あるし、知らないと損することも少なくない。だから、知識を得ることは基本的には良いことだと言える。

しかし、知識を得るのには時間がかかるし、忙しい私たちはその時間を惜しみがちでもある。だから、うまくやさしく教えてくれる人はとてもありがたい存在だ。

それが、嘘でなければ、ということだが。

正しい発信者をフォローしたい

Twitterの仕組みとして、あるいは法律で対処するのは難しいですが、自分一人が誤情報を受け取りにくくすることならば、ある程度の対処はできます。

それは、「正しいとあなたが判断できる情報を発信する人」を多くフォローし、逆に「誤情報を流してばかりいる人」をアンフォロー(ミュート、ブロック)することです。

たしかに「正しいとあなたが判断できる情報を発信する人」を多くフォローすることは有用である。しかし、この繊細な表現からもわかる通り、ここには自分のジャッジメントが入ってくる。

仮にまったくものを知らない人がいるとして、その人はどうやって提出された情報を正しいかどうか判断するだろうか。「他の人が、それを正しいと言っているかどうか?」。堂々巡りである。

何が正しくて、何が間違っているのか、という判断を下すのは容易だが、それ自身が正しいかどうかがわからないと、そのコンパスは当てにならない。

本探しのアンテナ

似たようなことは、読みたい本を探すときにも起こる。

『 わたしが知らないスゴ本は、 きっとあなたが読んでいる』では、さまざまな本との出会い方が紹介されているが、肝は本ではなく人を探すことになる。つまり、自分が面白いと思える本を「面白い」と評している人の評価は信頼できる、という寸法だ。

逆に言えば、自分がその時点でどんな本を面白いと思うのかについてまったく情報がなければ、この方法は使えないことになる。言い換えれば、起点が必要なのだ。

起点となる知識

もし自分が何かしらの専門的な知識を持っている場合、その知識に応じて、情報発信者のジャッジメントが可能となる。自分の知識からみて的外れなことを言っている人は、発信者としての信頼度を少し下げる、逆に合致しているなら少し上げる。そういうやり方だ。

これは一気に値を動かさない方がいい。人は誰だって、間違いや勘違いをもっているものなので、たまたまその分野の知識が欠けていただけかもしれない。だから、多面的に見て、総合的に値を動かすのが無難だ。

でもって、逆に言えば、自分が知識があればあるほど、自分が下す他の情報発信者の信頼度の信頼度(ややこしいな)は高まることになる。おそらくそれは、日本の地形図のように複雑な高低を描くものになるだろう。「この人のこの辺の情報はOKで、この辺はちょっと怪しいかな」といった具合に。

逆に、自分の知識が欠けていれば、すべて鵜呑みにするか、ひたすら疑うかの極端な信頼マップしか描けない。これは、複雑で繊細な情報が必要とされる状況では、結構危ういものだと言える。

ついでに言えば、そうした広大で精緻なマップを描くには、いろいろな人が持っているであろう知識を持っていると役に立つ。それは何か。教養である。

そう。教養的知識を身につけるのは、偉そうにふんぞり返る知識人を精査するための物差しを手にすることにもつながってくる。もちろん、そんなことのために学ぶ必要はなくて、単に興味を持ってのめり込んだら、そういうおまけがついてくる、という話でしかないのだけども。

さいごに

いろいろなことを、いろいろな人が教えてくれるありがたい時代ではあるが、その情報の真偽や質についてのジャッジメントを、完全に他者にゆだねることは危険である。

あるいは、最初は他者にゆだねていたとしても、その後、自分が獲得した知識によって、評価をアップデートしていくことは必要である。継続的な盲信は、どの角度から見ても危険なのだ。

「たしかなもの」を手にして安心するのではなく、「たしからしさ」を求めて常に視線をキープしておくこと。なかなか難しいことではあるけども、ここまで情報が濁流している時代では、避けては通れない姿勢ではないかと感じる。

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