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ライフハック・ブームが作り出してきたもの / 素朴なメディアの楽しさ / not for ready

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2022/03/14 第596号

○「はじめに」

このメルマガが配信されるのは3月14日です。確定申告の締め切りは3月15日ですね。終わっていない方、頑張ってください。

さて、今回も「はじめに」は縮小してお送りします。もう結構大丈夫そうな感じがありますが、一応様子見です。

では、本編をスタートしましょう。今回は原稿を三つお届けします。

○「ライフハック・ブームが作り出してきたもの」

前回は、ライフハックブームの「その後」を見てきた。「独学」というタームがその後継者を担っているという実情だ。今回は、別の側面として一つの「理想」としての在り方を検討しよう。いかなる後続の形が望ましいのか。それを考えていく。

■ライフハックとそれ以外へのまなざし

ここまでの連載で「ライフハック」が、個人的なものであることを確認してきた。パーソナルなものであり、セルフなものである。あるいはそれを対象にした技術や工夫。それがライフハックであり、それ以前の仕事術や知的生産の技術も同じような視座を持つ。

しかし、その視座は思うようには成果を上げなかった。それは、人が生きていく上では個人だけに注目していたのでは十分ではないからだ。自分以外の、自分を取り囲む「環境」へのまなざしも必要となる。

よって、ライフハックの後続を考えるなら、そうしたまなざしの検討を済ませておかなければならない。でなければ、同じ轍を踏むことになる。

そこで私は、逆説的な疑問を提示しようと思う。「ライフハックは、はたして個人的なものだったのだろうか」と。

■ブームという現象

たしかに、ライフハックの個々の技術は個人向けである。また、ライフハックのコンセプトも個人の人生に変化をもたらすものである。このテーマは、徹頭徹尾「個人」に彩られていると言って構わないだろう。

一方で、「ライフハック・ブーム」はどうだったろうか。あるいは、そのブームに至る直前の黎明期の盛り上がりはどうだっただろうか。

そこで話題になっていたことも、たしかに「個人向け」の話であった。しかし、そうした話題が盛り上がる、「場」が存在したのではないか。その場の中で、さまざまな技術や工夫の話題が流通し、そこで生まれる全体像の中で、個々の人々が、自分なりの「ライフハック」を生み出していったのではないだろうか。

ここにはきわめて微妙な関係がある。

個々の人々は、基本的に「自分のノウハウ」の話をしている。たとえばブログで、自分のノートや手帳を使い方を、あるいはEvernoteや各種アプリの使い方を紹介する。それは、他の人に向けて説明されていながらも、ベースの部分は「その人の使い方」に過ぎない。ひどく個人的な使い方だ。

しかし、その情報がある種のネットワークを通じて広く、というよりも「共通的」に読まれる。いわゆるクラスタというやつだ。AさんとBさんとCさんがいて、その人たちが同じ新聞を購読しているわけではないのに、あるブログに技術情報が上がったら、それを読んでいることがほとんど前提となる。そういう情報空間=場が、その当時には存在していた。

個人的でありながら、少し共通的(ないし公共的)な情報の流通。

そうしたアンビバレントな情報空間がライフハックブーム時代(あるいはその少し手前)には存在していたのである。

■技術として土俵に挙げる

振り返ってみると、『知的性生産の技術』の冒頭で梅棹が似たような話をしている。梅棹の仲間たちが自分の技術を開示し、それが共有され、改良されていく、といった情報ネットワークが存在していた、と。

最終的にその技術は個人的に使われるのだけども、しかし孤立してあるわけではなく、ある場に属しているような感覚。そうした感覚が存在してたのだろう。

そもそも『知的生産の技術』という本自体が、個人の技術として楽屋にしまわれてしまうような話題を、共通の「技術」として舞台の上に引っぱり上げるような意図を持っている。

そして、その本のブームによって、そうした話題を共有できる空間が広がった。昔はインターネットがなかったので、雑誌などを媒介してだろうが、「知的生産の技術」というタームがフックとなり、人々の──本来まじわることがなかった──個人の技術的情報を流通させたのだ。

■仕事術の場合

仕事術についても同様だろう。

一方では、著名人のノウハウが書籍などを通じて流されてもいたが、別の方では勉強会や読書会などを通じて、個々人の「仕事術」が共有される土台も育ちつつあった。当然この時代ではインターネットが活躍したが、それに加えてリアルの勉強会も活発であった。むしろ、ネットを使いリアルの人を集める、というある種の調和がうまく働いていた時代でもあろう。

そうした中では、やはり流通される情報は個々人の技術であるにせよ、そうした話題を共有できる人々がいたことは間違いない。情報空間=場があったのだ。むしろ、そうしたものがあったからこそ、「ブーム」とも呼べる規模の情報流通が生まれたのだと言える。そうしたものがなければ、もっと短い、単発的な動きで終わっていただろう。

■場の役割

以上のように考えると、ライフハックそのものは個人的な技術の話であっても、ライフハックブームは情報空間という一つの「場」を構成し、そこでの情報共有こそが一番の醍醐味であったのかもしれない、ということが見えてくる。

その点は、実体験からも頷ける。あの時代の楽しさは、実際にライフハックでどれくらい人生が効率的になるか、ということではなく、むしろそうした情報共有を通じて、他者と知り合え、意見を交換できるという体験だっただろう。ある種の「やりとり」がそこにはあったわけだ。

だからだろう。「ライフハックブーム」以降、ライフハック的なブログが大量に生まれたが、それに比例して「楽しさ」は向上しなかった。むしろ減少していった感覚すらある。それは「やりとり」が増えず、むしろ減っていったからだろう。

ブログを通じてライフハックを表現することが、単にブログを書くことに置換され、それが「ブログを書いて儲けること」に上書きされていく中で、「情報共有」というよりも「情報発信」に軸足が傾き、読者とやり取りすることよりもPVを集めることが、自分の方法を開示することよりもより多くの注目を集める方法を開示することが選択されるようになった。

結果として、情報量は増えたかもしれないが、コミュニケーションは減少した。あるいは、その質が変わってしまった。それがブームの終わりの始まりでもあっただろう。

結局のところ、大切だったのは個々の技術の話そのものではなかったからだ。その「場」こそが、一番大きい意味で「その人の人生」を変える力を持っていたからだ。その力が、今では損なわれてしまっている。

■工夫の減少

もう一点、別の観点からも検討していこう。

ライフハックがブームになると、発信される情報に変化が生まれる。前述したようにPV狙いの記事が生まれやすくなるのもそうだが、それ以上に「工夫」が消えていく点が大きい。

たとえば、GTDがブームだった頃、「GTD+R」なる手法があった。

◇第6回 誰でも始められるGTD+R(1) 仕事を成し遂げるためのカードゲーム:GTDでお仕事カイゼン!|gihyo.jp … 技術評論社

デジタルの情報整理ツールではなく、ちぎり取るメモ(ロディア)を使ったGTD手法で、情報整理の流れ自体はGTDと近しいものの、その実装は独自なものになっている。

また、情報カードを使ったGTD手法もあった。

◇第3回 Hipster PDAでシンプルGTD:アナログツールでライフハック:Hipster PDA時々モレスキン,のちトラベラーズノート|gihyo.jp … 技術評論社

複雑なツールを何も使わない、シンプルなGTDの実装である。

私が知らないだけで、上記以外の「アレンジ」や「バリエーション」は他にもたくさん存在しているのだろう。その時代には、そうした工夫がたくさん存在していた。原典通り忠実に実行するというよりも、自分なりに使いやすい用にアレンジして実践すること。

これはライフハックが個人的な技術である以上、必然的な帰結と言えるだろう。まったく同じ人生など存在しないのだから、それぞれで実装の形は変わってくる。逆説的ではあるが、だからこそ個々人がブログなどを通じて自分の技術を紹介していたわけだ。それは「どの本にも書いていない」方法なのだから。

しかし、ライフハックがブームになると、そうした流れに変化が生まれる。

まずPV狙いのブログは、記事を量産することが必要だ。できるだけ低コストで記事を作るのが望ましい。そうしたとき、「原典」の情報を丸写しするほど簡単なことはない。現代ではネット検索すれば、「原典」の情報はいくらでも見つかる。あとはそれをコピペして記事を作ればいい。

同様に、低コスト・高頻度で更新するとなると、「じっくりその方法を使い込んで、そこでの考察を語る」というよりは、ちょっとだけ実践してみた感覚で記事が書かれる。そこで開示されるのはその人独自の工夫というよりも、原典とその情報についての先入観が全体を占めることになるだろう。

このようにして、一方では「原典」の情報がやたらめったら目に付くようになり、もう片方ではその「独自の解釈」が騒がれるようになる。これはGTD+Rのような、独自の実装とはまったく違っている。

たとえばそこでは、「正しい方法」というのが念頭にあり、その正しい情報を自分がいかに正しく「解釈」しているのかの争点になる。

その争いに嫌気が差すと、今度は「人は人、自分は自分」という極端な姿勢になってくる。はじめから人それぞれなんだから、皆自分勝手好き勝手にやればいいじゃないか、というわけだ。そこでは当然、意見交流などの動機付けは簡単に消失してしまう。

再確認しておきたいのは、ライフハックの話題が盛り上がっていたときは、それぞれが自分の技術を探求しながらも、それでいて共通の「場」に所属しているような感覚があった点だ。そこでは議論も行われたが、「どれが正しいGTDの方法なのか」といったことは議題には上がらなかった。どうでもいいからだ。

最終的に重要なのは、その技術によって自分の人生に少しでもGoodやNiceが増えるかどうかである。そして、「正しいGTD」を実践したからといって、GoodやNiceが増える保証はどこにもない。大切なのは、自分で実践することであり、それをサポートするための技術である。

知識の形態で言えば、「実践知」こそが主要な対象であって、「形式知」はその実践を支えるためのものでしかない。

しかしながら、PV狙いの人たちは──実践に手間をかけていられないから──流通しやすい形式知ばかりが取り上げることになる。

イメージしてみよう。10の情報のうち9が「正しい方法」を紹介している場合と、9が「カスタマイズした方法」を紹介している場合。どちらの方が、自分もカスタマイズしようと思うだろうか。もちろん、後者だろう。

しかしながら、ブームになればなるほど情報環境は「正しい方法」(形式知)ばかりが占めるようになった。その結果、工夫が大切であり、必要であるという認識が育まれず、またその工夫を行うために必要な情報共有・交流も盛んにはならなかった。当然、そこからの発展は望めないだろう。

■さいごに

以上のようなことを考えたとき、必要なのは「個人の工夫を促す、共有的な場作り」だということが見えてくる。なかなかアンビバレントな性質ではあるが、しかし、そこにしか道は残っていないようにも思える。

少なくとも言えるのは、ライフハックの「後続」を考えるならば、個人の方を向きながらも個人では閉じない場を作ることが必要である、ということだろう。でなければ、話題の発展は望めないし、それ以上にネオリベラル的な思想と限りなく近づいてしまう。それは望ましい脱出地点ではないだろう。

次回はこの点について、もう少し包括的に検討してみよう。現代における情報環境はいかに構築されるべきか。難しい問題へと入っていく。

(次回に続く)

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