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あなたの方法で良いんです

以下の記事を読みました。

やーこれは個人的には救われた気がしました。OmniFocusも肌に合わず、ドラッグ&ドロップが使えないという理由でWunderlistもTodoistも使わず、結局iOSのリマインダーに落ち着いた僕は、「やっぱちゃんとしたタスク管理ツールを使いこなしてこそ一流だよなぁ」って勝手に思っちゃっているところが心のどこかにありました。

この気持ち、なんとなくわかります。私も本読みとして、一時期「岩波新書は全部読んでおかないとな〜」なんて思っていて、それができていない自分があたかも劣っているかのように感じていたことがありますが、そういうのは結構しんどいですね。

もちろん岩波新書の面白さは間違いないんですが、それを読破することで得られるバーチャルな資格、つまり仮想的なグループの一員として認められるための資格みたいなものは、私の人生にはまったく関係ありません。

そういうグループで認められたら、私の仕事がうまくやっていけるならともかく、どうやら私はそういう領域とは全然関係ないところで仕事をしているみたいですし、おそらくこれからもそうでしょう。だからまあ、私は私で、「自分の方法」でやっていくだけです。

なんとなく、受験勉強とか資格試験のメンタルモデルというものがありそうな気がします。

学校教育でも、掛け算の順番が間違っていたらバツにされてしまう、つまりあらかじめ誰かが規定した通りのやり方でなければ○をもらえない、という環境で成長してきたら、「正しいやり方を、身につける。自分がそれに合わなければ、合わせるように努力する。合わせられないなら、自分が劣っている」みたいな考え方が、無意識に身に付いてしまうものなのかもしれません。

あと、逸脱よりもムラ社会的調和を尊ぶコミュニティーの中にいると、自分だけが他の人と違うやり方をしていると、なんとなく居心地の悪さを感じることもあるでしょう。

でも、やっぱりこう思うんです。あなたの方法で良いんです、と。

だって、人生を生きることは、受験勉強でも義務教育でもないんですから。

ブログなんかでも、「こうすれば成功します」みたいなノウハウが謳われて、その通りにやって結果が出て満足が得られるんなら別にいいんですが、「なんか、違うよな〜」と思いながらそれに従うのって、どこか歪んでいる気がします。だって、ブログというのはあなたのメディア、あなたが編集長のメディアなんですから。だから、それをどう運営するも本来は自由であり、「正解」というのはないはずです。

でも、そうはいっても、そういう「正解」幻想というのは、結構強く機能します。多くの人が認知することで、共同的な幻想へと成長したらなおさらやっかいです。

でも、やっぱりこう思うんです。あなたの方法で良いんです、と。

ゲームの話をしましょう。

たとえば、パズル&ドラゴンズというゲームをやっていて、少々難しいダンジョンにぶつかったときに、ゲーム攻略サイトやYouTubeを検索したりします。週一回しかゲーム雑誌が発売されなかった頃のことを考えれば、実に素晴らしい環境です。

でも、そういう動画を見ると思うんです。「そんなキャラ持ってねーよ」と。衛宮士郎は持ってても、犬夜叉も一歩もコットンも持ってないんです。だから、そんな全力パーティーで「攻略」されても、私にはぜんぜん役に立たないんです。一見似ているようで、全然違うんです。だから結局いろいろ試してセイバーパーティーでクリアしちゃう、ってことがあります。

もちろん、そういう場合に備えるように、全力でガチャを回して、「必要そうなキャラを全て確実に確保していく」というプレイスタイルもきっとあるでしょう。でも、「そうしなければならない」と考えると、急にしんどくなってきます。いや、別に、そこまでしたいわけじゃないんだ、と。

遊びというゲームですら、こういうことが起こります。他の領域だったら、どうなるのでしょうか。

ノウハウ本などを読んでいても、似たようなことが起こります。あたかも完璧に完全にこなせていないと「ダメ」な感じがしてくるのです。

おそらく、説得力を持った著者の本ほどそういう感じ方は強まるのではないでしょうか。確信に満ちた態度で、「この方法がいいんです。この方法こそがすべての問題を解決する鍵なんです」と言われれば、ころっとそれを信じてしまうことは十分ありえるでしょう。やさしく、わかりやすく、感情と理屈を適度に刺激する書き手であるほど、そういうのはうまいのではないかと思います。

もちろん、そういう書かれ方は、受験勉強のメンタルモデルと強く呼応しています。片方がもう片方を呼び、もう片方が片方を呼ぶ。書かれるから読み、読まれるから書く。そういう形です。だからこれは誰かが悪い、という話ではありません。誰かが劣っているという話でもありません。そういうことって、よくあるよね、という話です。

だから何かを否定するのではなく、ごくごく単純に肯定したいのです。あなたの方法で良いんです、と。

いったん、どこかにある「正解」という考え方を横に置けば、後に残るのは試行錯誤だけです。いろいろ試して、少しずつ掴んでいくしかありません。

もちろん、コツというのはあるでしょうし、平均的に機能する技というのもあるでしょう。その意味で、他の人のやり方は間違いなく参考になります。でも、それは「道中」でしかありません。歩いている、道の途中なのです。

たぶん私は、ひどく残酷なことをここで書いているのだと思います。だって、「正解」があった方が楽ですからね。面倒な試行錯誤など捨てて、その「正解」に自分を合わせれば、それで物事がうまくいくのです。これほど素晴らしい環境はないでしょう。

でも、「あれっ、それってちょっと変じゃないか?」と思った人は、自分の道を歩くしかありません。誰も歩いたことがない、道を進むしかありません。言うまでもなくそれはハードなことです。この道を選ぶのが楽だから選ぶのではなく、そこしかないからという「しぶしぶ」や「やむなし」の選択のようなものです。

しかも、自分で選んだのですから、どうであれその結果は自分が引き受けなければなりません。これはこれで、結構なしんどさがあります。だからこれは、「しんどさ」の選択です。どちらのしんどさならば引き受けられるか。そういうあまり心躍らない選択です。

でも、私はやっぱりこう思います。あなたの方法で良いんです、と。

それを理解した上で、自分を合わせる選択もあるでしょう。それだって一つの選択です。優劣の問題ではありません。選択の問題です。どちらを選ぶにせよ、その人は何かを選んでいます。「こうでなければならない」という思いからは解放されています。そういう「しんどさ」を捨てられるのは、それはそれで結構大切なことだと思います。
※もちろんここでも、「こうでなければならない」を捨てなければならない、という別の「べき」が発生しつつある点には注意が必要です。

だから何度でも言っておきましょう。あなたの方法で良いんです、と。

もちろんこれは独善性の肯定ではありません。汎用的な方法の否定や、緊急的な状況での絶対的な選択の否定でもありません。たんに、開かれた選択肢というものは、いつでも見つけられる、という可能性の肯定です。

だからまあ、いろいろ考えて、観察して、発見してやっていきましょう。そういう「しんどさ」はときどき面白かったりします。それもびっくりするくらいに。

※この記事はR-styleに掲載した記事のクロスポストです。


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