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メモからノート / 引っ越しクエスト / 本を読むと賢くなった気がする / メディアの向きと情報の流れを再編する

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2024/08/19 第723号


はじめに

ポッドキャスト、配信されております。

◇BC096 人間の色覚と色について | by goryugo and 倉下忠憲@rashita2 |ブックカタリスト

◇155. 【ゲスト回】読書会やコミュニティの楽しみ方!一人じゃたどり着けない楽しさに出会うコツとは~ 著者・倉下忠憲さん ~ 作成者:ブックテラス

ブックカタリストでは、『見たい! 聞きたい! 透明水彩! 画家と化学者が語る技法と画材』と『ひとの目、驚異の進化』の二冊を絡めながら、「色」についてのお話をしていただきました。

ブックテラスはゲスト出演の最後の回。ノートの話からやや離れて「コミュニティ」について語り合いました。

よろしければお聴きください。

〜〜〜3年前と変わらぬ手つきで〜〜〜

部屋の掃除をしていたら、ノートツールの整理もしたくなりますね。

で、Workflowyを整理していたら、「あとで読む」扱いになっていた千夜千冊へのリンクがいくつもみつかりました。

このままWorkflowyに置いてあっても埒があかないと思い、じゃあCosenseにでもリンクを集めておくかとページを作ろうとして、検索ボックスに「千夜千冊」と入力したら以下のページがサジェストされました。

◇千夜千冊リスト | 倉下忠憲の発想工房

ページのinfoを確認してみると、3年前に作っています。

「自分が自分であること」の定義は難しいものですが、こんな風に忘れていても同じ「手つき」で情報を扱おうとしているのを確認すると、自己というものの連続性を感じないではいられません。

〜〜〜デスクツアーツアー〜〜〜

新しい部屋に移ったら、ついでに作業机も刷新しようと目論んでいます。で、どんな作り方があるかな〜とYouTubeのデスクツアー動画を漁っています。

「漁っている」というか、いくつか見ていたらオススメ動画にサジェストされる割合が増え、それをさらに見ると、ますますサジェストされる割合が増えていく、という具合です。

情報を追いかけているのか、情報に追いかけられているのかちょっとわからなくなりますね。

それはさておき、YouTubeで動画を公開されているくらいですから、皆さんのデスクはとても綺麗です。真似したくなります。

しかし、です。

単純に言えば、そこにあるのは「YouTuberのデスク」です。実際、大画面・複数画面で動画編集は便利です、みたいな話が毎度毎度3出てきます。たしかにそれは便利そう。

一方で私は動画編集などはせず、単画面で原稿ファイルに集中していることが多いわけで、そうした「便利」さが自分にも通用するかは怪しいところです。

主力がテキストエディタで、資料となる本を大量に持っている人のデスクツアー。

私が見たいのはそういう動画なのですが、なかなかそうした動画がサジェストされません。たぶん、自分で検索して、見つけに行くことが必要なのでしょう。

〜〜〜ウィンウィン・オルタ〜〜〜

「Win-Win」という考え方があります。発祥がどこかはわかりませんが、『7つの習慣』で人口に膾炙したことは間違いないでしょう。

自分だけが特をして、相手が損をするような取引を、Win-Loseとするならば、両者が得をするような取引の形を設計せよ、というのがこの「Win-Win」のベーシックな理念であり、まさに人格主義を象徴するようなメッセージです。

ただ、それがビジネスの現場に入ってくることで、かなりうさんくさい「Win-Win」も出てきているので、運用には注意が必要なのですが、それとは別にこの言葉に含まれている「win」という言葉の語感にも注意を払いたいところ。

なにせ、「勝つ」です。何かしらのゲームをしていて、そこで勝利すること。「Win-Win」という言葉にはそのような前提が織り込まれています。しかし、その前提がすべての状況に適用できるとは思えません。

たとえば、私が本を書く。それを読んだ人が面白いと言ってくれる。その感想を聴いて、私も嬉しくなる。

両者がポジティブな感情を得ているわけですから、雑に言えば「Win-Win」的状況なわけですが、そこでは何もゲームは行われていません。「仕事」があるだけです。

それを考えると、「Win-Win」という素晴らしいコンセプトを、"勝ち負け"の語彙を使わずに表現できたらよさそうです。

皆さんはいかがでしょうか。両者がポジティブな結果を得ることを表す、ゲームとは違う語異空間をお持ちでしょうか。よろしければ倉下までお聞かせください。

では、メルマガ本編をスタートしましょう。今回はノートについて、引っ越しという大きなプロジェクトについて、読書について、発信の仕方についての四編をお送りします。

メモからノート

「メモの研究」というテーマで連載を書いているのだが、リストの話が存外に盛り上がってしまった。リストについては書きたいことがまだまだあるので、それはまた"スピンオフ"させることにして、メモの処理の話を続けよう。

リストの次はノートだ。

■5 ノート

私たちはまず、メモとして何かを書き留める。そうしたメモは、その場で処理されて終わりになるものもあれば、別の場所に移して利用の機会を待つものもある。

後者の用途で使えるのがここまで紹介してきた「リスト」なのだが、それとは別の形態として「ノート」がある。

まず用語に注意しよう。ここでの「ノート」は比較的限定された意味合いでのノートだ。拙著『すべてはノートからはじまる』では、書き留められたものの総称として「ノート」を用いたが、そこまで広範囲なものではない。

書き留められたものがあり、その中にリストという形式があって、それとは違う形式のものがある。その後者を指すのが「ノート」である。

と、いきなり小難しい感じになってしまったが、もっと直感的なイメージに頼るならば、箇条書きで項目が書かれているのがリストで、文章で書かれているのがノートである。

実際には、ノートにも文章主体であるもの(ドキュメント)や図版主体であるもの(マップ)といった区別があるのだが、それを詳細に論じているとリストの二の舞いになるのは目に見えているので、ここでは立ち入らないことにする。

大きく、リスト形式とノート形式がある。まずはこの区分だけを導入しよう。

■5.1 リストではないノート

では、そのノートはリストとどういった違いがあるだろうか。

リストは、いくつかの特徴を持つ。項目は一つひとつ独立していて、全体として一つの文脈を構成する。項目の順番を入れ替えることができる。項目を新しく追加することができる。項目を削除することができる。

このように、要素(項目)に対する操作性が高いのがリストだ。

ここで込み入った話を一つ差し込んでおこう。上記で「要素に対する操作性が高い」と書いたが、これが機能するのは"要素"という概念が成立しているからである。"要素"という概念がなければ、"要素に対する操作性"という概念も立ち上がりようがない。

リストでは「項目が一つひとつ独立している」が、それによって"要素"として立ち上がってくる。物理的な性質が付与されるというのではなく、私たち人間の認知としてそれが"要素"として浮かび上がってくるのだ。

なぜこんな込み入った話をするのかと言えば、デジタルツールであればリスト操作が可能なツール以外でも上記のような操作はいくらでも可能だからである(コピー&ペーストを思う浮かべればいい)。

よって、同種の操作ができるだけで「リスト」と呼ぶならば、すべてのデジタルツールはほぼリストであるとすら言えてしまう(そして、その言い方はある面でひどく正しい)。

しかし、リストのリストたるゆえんは、そうした操作が機能的に可能ということ以上に、私たちの認知がそうした"要素"を操作可能な対象として認識しているという点にある。のっぺりとした"地"に沈んでいたものを、一つの塊として"図"に浮かび上がらせる。それがリストの効能である。

であれば、ノートはそうした効能を持たないものであると否定的に定義できるだろう。

■5.2 ノート

では肯定的に定義していこう。

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