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制約された成功の圏

でも、もう一度言うが、ブログは「予想もしなかった場所に辿り着く」ためのメディアではない。それは主従が反転してしまっている。「遊び場」なのだ。単なる遊び場。そして、情報社会でありコト社会である現代では、その遊び場でこそ面白いことが起こる。

逆の話をしよう。

「こうすれば、こうなりますよ」と提示される成功法。それに必死で従う。その通りにやる。真面目に取り組む。そこには「遊び」がまったくない。

得られるものは何か?

もちろん「成功」だ(だってそれが成功法の役割だろう)。でも、その成功は、「こうなりますよ」とあらかじめ予想できるものでしかない。しかも、最初に提示されたものを100としたらほとんど確実にそれよりも小さいものになるだろう。どうしたって、二番煎じ、三番煎じでしかないし、時代も動き、参加者も増えている。もうその時点で、「他に似たことをやっている人がたくさんいる」という状況である。そのときに手に入る「成功」が、予想外のものでありうるだろうか。

「予想もしなかった場所に辿り着く」というのは、青森に向かっていたら札幌についた、というものではない。島根についた、というものでもない。いつのまにか富士山に登っていたり、あるいは新しく生まれたばかりの共和国に招待されていた、というものである。スポーツで喩えれば、全力でサーブを打ち込んだら、ラグビーで得点していたような感覚である。それぐらい、異質なものにアクセスできること。そういうことが、既存の成功法には期待できない。だってそれは、事前に規定された「成功」に向かって効率的に(言い換えれば最短で)近づくための方法だからだ。そこには「遊び」というものがない。別の場所にいく可能性は、あらかじめ制約されている。私たちはその圏の中で必死に努力するだけだ。

もちろん、それでいいという選択はあるだろう。ほどほどでいいのだと、100を提示されたときに、60くらいの成果でよく、あるいはそのことについて話題を共有できる仲間がいれば満足なんだという心情は否定されるものではないし、むしろ多数派なのかもしれない。

だからここでこうしなさいと言いたいわけではない(それはつまり、成功法を提示することになるわけだから)。

単に、自分は何を選ぼうとしているのか、どこに進もうとしているのかを、少し考えてみるといい。そして、自分によって心地よい──というよりも、納得感のより多い──選択ができれたら、それで十分だろう。

※この記事はR-styleとのクロス・ポストです。

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