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考えを育てるには時間がかかる / ブックマークレットの作り方その4 / アウトプット、Publish、情報発信

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2022/08/15 第618号

「はじめに」

セール情報です。『Re:vision』が「Kindle本夏のビッグセール」対象になっております。

◇Re:vision: タスクリストとアウトライン | 倉下忠憲, Tak. | 経営情報システム | Kindleストア | Amazon

二ヶ月前の月替わりセールに選ばれたばかりなのですが、続けて夏のビッグセールにも選ばれました。ありがたい限りです。

電子書籍は発見してもらうのが難しいので、こういうセールの機会にたくさんの人に知ってもらえたらなと思います。

〜〜〜ポッドキャスト〜〜〜

ポッドキャスト、配信されております。

◇第百十回:Tak.さんとアトミックとは何かについて 作成者:うちあわせCast

◇『アトミック・シンキング: 書いて考える、ノートと思考の整理術』 | by goryugo |ブックカタリスト

今回は、どちらの番組でも『アトミック・シンキング』に関する話題でお話しました。以下の本です。

◇アトミック・シンキング: 書いて考える、ノートと思考の整理術 | 五藤隆介, 五藤晴菜 | 実践経営・リーダーシップ | Kindleストア | Amazon

本については、今週の「読了本」でも触れていますのでそちらをご覧ください。

〜〜〜カルチャーにしないキャンセル〜〜〜

たとえば、これまでの作品から「この出版社の本は、あまり期待できないな」と推測することはあるでしょう。実際、そうした出版社の本を買わないこともありえます。

しかしながら、わざわざそのことを声高に表現し、あまつさえ「皆さん、この出版社の本は買わないでおきましょう」と明言するのは(それもSNSで明言するのは)いささかやり過ぎな気がします。

何がやり過ぎなのかと言えば、そうした「不買運動」自体が一つの権力機構になってしまうからです。極端に言えば「俺たちに逆らったらどうなるか、わかってるよね?」というやつです。これは不健全でしょう。

とは言え、何もかもオールOK、というのではフィードバックが歪んでしまいます。評価するものは評価して、そうでないものをスルーする。そうしたフィードバックが回っているからこそ、一つの系(システム)は破綻なく回り続けてくれます。

もちろん、これは微妙な問題を含んでいます。声高に叫ぶべきタイミングもきっとあるのでしょう。しかし、そうしたタイミングはそんなに多くないと思います。それよりも、私たちが権力に惹かれて、ついつい大きな声を上げてしまうことをより心配した方がよさそうです。

時間はかかるかもしれませんが、「良いものを良い」と継続的に評価し続けていくことが、望ましい未来をつかみ取るための一番の方策だと感じます。

〜〜〜読了本〜〜〜

以下の本を読了しました。

『アトミック・シンキング』

ごりゅごさんが書かれた、「考える=書く」の練習本です。

本書の一番のポイントはその速度感でしょう。あっというまに成功できるわけでもなければ、二時間読めばマスターできるわけでもありません。身につけるには時間がかかることが明言されています。

その上で、ちょっとずつでもいい、最初からうまくいかなくていい、という初心者の横に立ってサポートする視点で書かれているのです。

すでにノウハウを体得している人が「この坂を登ってこい。できなければ知らん!」というスパルタ的態度を取るのではなく、著者と一緒にゆっくり歩いていけると思わせてくれる内容になっています。

そういう姿勢は、実践が必要なノウハウ本だからこそ必要なのでしょう。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週の(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のストレッチ代わりにでも考えてみてください。

Q. 「書くこと」は得意でしょうか。あるいは「考えること」はどうでしょうか。

では、メルマガ本編をはじめましょう。今週もScrapbox知的生産術の続きと、二つのエッセイをお送りします。

「考えを育てるには時間がかかる」

[Scrapbox知的生産術16]

DCS(デジタル・カード・システム)を使って、自分の考えを育てていくことは、残念ながら即効性のある方法ではない。今日やれば、明日成果が得られる、といったものではないわけだ。

というか、DCSを使おうが使わまいが、考えを育てることには時間がかかる。一朝一夕に考えが大きく成長することはない。植物のように、じっくりを根を伸ばし、じわじわと枝や葉を広げていくものなのである。

急激で極端な成長は、いびつな形へと向かってしまうだろう。たとえば、他者からの受け売りを、「自分の考え」だと勘違いしているような。あるいは、ゴミを集めてきたトラックが、荷台を上げて一気に流し込んだかのような。

一つひとつの考えを、自分で吟味することもなく、その意味を問うこともなく、他の考えとの関連性を考えることもない。

そんな風に詰め込まれた「考え」は、たしかに姿形は大きく見えるかもしれないが、その実体は空っぽに過ぎない。そういう形の「成長」は目指さない方がよい。

植物と同じようにじっくりと、止まることなく伸びていけばいい。

■長期的に可能な方法で

さて、考えを育てていくには時間がかかるとして、だとすれば長期的な継続が求められる。何かしらの方法を用いるなら、その方法が長期間使えなければならない。

これまで確認してきたように、ScrapboxによるDCSはまさにそのような特性を持っている。短期的には効果が感じられず、むしろもどかしさがあるかもしれないが、長い目で見たときに効いてくるのがこの方法なわけだ。

即効性のある方法は、短期間しか効果がない。だからこそ、長期的な運用について考えなくてもよい。現代ではそうした「短期ノウハウ」が主力になっている傾向がある。

しかし、デジタルツールとは本来そういうものではないだろう。長い期間を通じて、たくさんのデータを扱うのがデジタルの得意分野であるはずだ。

だから、デジタルにおける知的生産では、短期的な効能を追いかけるのは一休みしよう。そうしたものにも、もちろん長所はあるわけだが、それ以外のものに目を向けてもいいはずだ。むしろ、現代だからこそ、そうしたものに目を向けるべきなのかもしれない。

■どこにゆくのかはわからない

考えを育てていくことは、情報を整理するのとは違った姿勢が求められる。あるいは、情報を整頓するのとはまったく異なった視点が必要となる。

何が一番の問題かと言えば、「自分の考え」が最終的にどのような形に育つのかは、最初からはわからない、ということだ。

「私の考えは、将来的にリベラリズムの最高点に達するだろう」

みたいなことがわかっていれば、そのための整理整頓は楽に行えるだろう。そこには向かうべき道があり、対立意見があり、補足情報があり、瑣末な話題がある。情報に線を引くことができるわけだ。

しかしながら、それは「考えを育てる」のとは違っているだろう。むしろ、それは研鑽や勉学に近い行為と言える。

実際のところ、私たちは「自分の考え」がどこにいくのかはわからない。「自由」について徹底的に考えた結果、「人間にとって自由は不要な概念である」という考えに至るかもしれない(十分にありえることだ)。あるいは、これまで誰も考えたことがなかった角度から「自由」を解釈するようになることもありえる(それはそれで素晴らしい成果だろう)。

それが「考えを育てる」という行為の自由さであるし、私たちがそれを希求する理由でもある。固定観念に、あるいは自分が最初からもっている「考え」に縛られないこと。そこから、自由に考えの根や枝葉を伸ばしていくこと。それが、「考えを育てる」という行為である。

だからこそ、その行為は「混沌を育てる」とつながっているのだ。

■秩序から遠く離れて

「考えを育てていく」上で、最終的な終着点は見定められない。それは常に手探りによって進んでいく。もちろん、進んでいくうちにわかってくることはあるだろう。自分の興味の傾向や、関心のある分野などは、時間と共に理解が深まっていく。しかしそれは終着点を示すものではない。

どこにたどり着くのかは、最後まで歩いてみないとわからない。

だから、「考えを育てていく」行為では、最初に秩序を決めて、その通りに情報を整理していくやり方ができない。もそもそ、必要な秩序が最初にはわからないからだ。

だからこそ、混沌を育てるのだ。混沌を混沌なまま育てる。

DCSで目指したいのはそうした方針である。梅棹忠夫が口を酸っぱくして「分類するな」と繰り返したのも、きっと同じことを見据えていたのだろうと、今となっては思う。これはとても、とても大切なことなのである。

■限られた視点と共に

私たち人間は、矮小な視点しか持ちえない。物事の本質すべてを一望することは叶わない。逆に言えば、私たちがある時点でとれる視点は、きわめて限定的である。

時間をかけて、ゆっくりと考えを広げていく行為は、そのような限定性を持つ私たちがとりうる一つの戦略である。一つの角度から見る。別の角度から見る。そしてまた、別の角度から見る。そうしたことを積み重ねていくことで、私たちの視点は、少しずつ多角的に、あるいは立体的になってくる。

もちろん、その「立体」は、はじめからそこにあったものだ。物事の本質が、すでに多角的であり、立体的なものなのだ。その一部分を私たちは切り取ったにすぎない。

何か情報をまとめる、という行為も基本的には同じことだ。私たちは物事のすべてを記述することはできない。ある部分を限定的に切り出すだけだ。

それは、語りうる要素の数が限られている、という話に留まらない。そこにある要素の関係性すら、すべて列挙することは叶わないのだ。

AとBは関係している。AとCも関係している。AとDも、……これを無限に続けることはできない。

整えられたドキュメントは、きれいな木構造を描く。あるいは木構造に沿うように整えられる。無限に関係性を著述するのではなく、整った構造に収まる分だけを著述するのだ。だからこそ、読み手にとってその文章は読みやすいものとなる。

しかし、そこで示されたのはあくまで一つの切り口にすぎない。同じ素材扱いながら、まったく別様に切り取ることができる。

大きなネットワークからの部分的な切り取り。

それが私たちがドキュメントを(あるいは本を)書くときにやっている行為である。

DCSで育てる混沌とはとは、木構造ではなくネットワーク構造をしている。そこからいかようにでも切りとることができる、原初のネットワーク。

前述したが、そのネットワークは別段DCSによって構築されたわけではない。世界はもともとその関係性を内包しており、私がその一部を「発見」したにすぎない。

だから、無限に広がるかのように見えるDCSですら、「私」という視点から行われた有限化に過ぎない。単にそれが木構造に沿うように整理されていないだけだ。

さんざん述べてきたように、こうしたDCSは、アウトプットの素材を直接的に集めるものではない。過去の自分との対話を行い、考えを育てていくためのツールだ。

私たちのアウトプット(知的生産物)が、頭を使って作られるならば、上記のような考えを育てることは避けては通れないだろう。

たとえて言えば、「日々の思考」という土台の上に、「まとまったアウトプット」が鎮座する。つまり、植物の根っこに相当するのが「日々の思考」であり、地上に伸びる幹や枝や葉に相当するのが「まとまったアウトプット」である。

落ち葉を集めても、木は作れない。木を作るには、まず根を伸ばすことだ。

私たちは、混沌を混沌のまま自由に広げていく。根っこを縦横無尽に張り巡らせていく。そうした根を直接「幹」や「枝」にする必要はない。そうしたものは、日々の思考を積み重ねていった先に生まれ出るものである。

その点を無視して、効率化しようとすると、「落ちた葉っぱで木を作る」のような事態になりかねない。これは知的生産という観点で言えば、危険サインである。何かを取り間違っている可能性が高い。

本当に必要なことは何なのかを、真摯に考えてみる必要があるだろう。

(つづく)

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