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情報整理ダイアローグ第十九回:ソリッドステートなScrapbox

前回は四ツールが一つ、WorkFlowyを紹介した。 アクティブな情報を置いておき、そこで操作するという利用方法だ。今回は、Scrapboxについて紹介しよう。

Scrapbox

Scraboxは、私にとって情報カード的に利用するツールである。梅棹忠夫の『知的生産の技術』や、ズンク・アーレンスの『TAKE NOTES!』で紹介されているニクラス・ルーマンのカード法と同様のコンセプトだ。自分の着想・アイデアを一つひとつカードにしたためておく。そういう利用法である。

とは言え、情報カードはアナログツールであり、Scrapboxはデジタルツールである。よって「情報カード的に利用する」というのは、あくまでたとえに留まる。近しい性質はあるが、しかしまったく同じではない。その同じではない点が、面白いさであり、難しさであるわけだ。

Scrapboxを選ぶ理由

Scrapboxの特徴は、情報をツリー構造化に配置してその「位置」を情報把握の一要素とするのではなく、情報同士をネットワークで接続し、その「関係性」を情報把握の一要素としている点にある。

同種の構造を持つツールでは、たとえばObsidianやRoam Researchがある。どちらも見事なツールだが、それらを試した結果として私はScrapboxを選択している。なぜだろうか。

Roam Researchは、有料であるから他人に勧めにくいという点と、多機能すぎるあまりに起動が若干遅い、という点が引っかかっている。研究職でない私にとっては、too much な感触があるのだ。

では、Obsidianはどうかというと、こちらはローカルファイルを扱え、さらに機能をプラグインによって拡張していく方式をとっているので、「自分にとって必要なだけの構成」を作れる魅力がある。Roam Researchのような too much さをあまり感じなくてよいわけだ。その上、最近の私は自作スクリプトを使ってローカルファイルをいろいろ操作している。となれば、相性は抜群なわけだが、それでなお私はScrapboxを選択し続けている。非常に奇妙な感覚だ。もろもろの条件を考慮すればObsidianを選んでいいはずなのに、実際はそうなっていない。

たとえば、私はメガネをかけた女性に惹かれる傾向を持つが、しかし私の妻はメガネをかけてはいない。それに近いものがあるだろう。目立つ要素だけを取り出しては見えてこないものがあるわけだ。

しかし、あえてScrapboxを選ぶ理由を明示するとすれば、一つには「複数人での利用」を想定していることであり、もう一つには「インターネットの再興」をツール開発陣が願っているのだろうなと感じられることである。もちろん、この二つは複雑に絡み合っている。10年以上も前に私たちが感じた、インターネットの輝きをどうにか取り戻せないか、という願いが感じられるし、そのためには個人が便利なツールを使うこと以上の何かが必要なのだ。

私は、主要なプロジェクトはすべて公開しているし、また複数人がjoinしているプロジェクトにも参加している。そこでのやりとりが、すべてうまくいっているとは言い難いが、それでもいくつかは親密で理知的なやりとりが行われている。インターネットがなければ決して意見を交わせることがなかった「異種」(同種ではないのがポイント)の人たちと意見交換ができている。これは素晴らしいことであろう。

ソリッドステート

上記のようなややメタな観点から外れて、具体的な利用法について紹介しよう。

とは言え、こういうのは実際に見てもらうのが一番かもしれない。こういうのはなかなか言語化してもしつくせない性質を持っているからだ。

Scrapboxに書き込むのは、基本的に「ソリッド」なものである。ある一つの「かたまり」として輪郭線を持つ情報と言い換えてもいい。

その輪郭線はがちがちに固まるものではない。必要に応じて拡大したり縮小したりするし、貼られているラベル(ページタイトルのこと)が変わったりもする。しかし、ある時点では、たしかに一つの「かたまり」として扱えるものであり、扱いたいものである。その点が、WorkFlowyで扱う情報との違いである。

WorkFlowyで扱う情報は、基本的に「変化が前提」である。追記され、位置を入れ替えられ、削除されといった操作が期待されている。そして、そういう操作が終わってしまったらそれはもうWorkFlowyからは移動させられる。つまり、ある「経過」(プロセス)にある情報がWorkFlowyには置かれている。

一方Scrapboxでは、そのようなプロセスは意識されていない。むしろ、一つのページに記述を施すことそのものが「プロセス」であると言える。そして、それが終わったら、「いったん終了」とできる。そういうものがScrapboxに集まってくる。そうした情報を、ここではソリッド(ステート)とひとまず呼んでみることにする。

概念的には、Evergreen Notesの「Atomic」という感覚が近いだろう。原子はそれ独自で存在していて、それらを組み合わせて分子が形成され、分子を組み合わせて物質になる、といった具合だ。もちろん、そういう表現をしても構わないのだが、「原子」という表現は極端に小さいサイズがイメージされやすい点と、その中身が変化しうるというイメージが喚起されにくい点が若干引っかかっている。

たしか梅棹忠夫も情報カードを書くことは、情報の原子化である、といった捉え方をしていたが、それはやはり情報カードがアナログツールであり、書き換えが基本的に想定されていなかったからだろう。今の私たちにはデジタルツールがほとんどデフォルトになっているわけだから、新しいイメージ喚起が必要である。

もう一点付け加えれば、私はWorkFlowyをフローなもの/リキッドなものを扱うツールと位置づけている。たとえば水は容器に入れておかないと一つの形を保てない。それを同じで、WorkFlowyに入れることではじめて「操作」できる対象がある、というわけだ。そのリキッド感との対比で、Scrapboxはソリッドなイメージがあると言える。

(もちろんこれは私の使用におけるイメージであって、ツールにアプリオリに宿るイメージではない点には注意されたし)

ソリッドな積み上げ

情報がソリッドに固着していると、それを積み上げることができる。逆に言えば、ソリッドな輪郭線がないものは積み上げることができない。

ある思想や概念を「とりあえず、こう」だと記述することで、「であれば、こう言える」と発展させることができる。その「とりあえず、こう」を記述しないでおくと、情報はあらゆる可能性をもった状態で未-存在してしまい、そこからの積み上げができなくなる。固まっていないブロックの上には何も置けないのだ。ここでは可能性と発展性のトレードオフが存在している。

本の原稿を書いているときでも同じだ。第一章なら第一章をとりあえず固めてしまわない限り、第二章以降に何を書くべきなのかは決定不能である。第一章の内容に沿って、その後続はいくらでも変わりうるからだ。そこで第一章をとりあえず書いてしまう。そこで第二章を考える。不整合が生まれたら、第一章に戻って再検討すればいい。

私たちの脳内では、さまざまな思想が無限の可能性を持って未-存在している。それは非常に心地よい状態だし、万能感も得られる。なによりそれは疲れない。一方で、小さい単位でもそれを文章化するのは疲れるし、脳内では有していたはずの「数々の可能性」がそぎ落とされたかのように感じられる。少し不愉快な体験だ(精神分析の去勢にたとえられるかもしれない)。

しかし、それを行わない限り、私たちの「思想」(と大きく言っていこう)は、未-存在のままである。心地よい未-存在の牢獄。

そこからなんとかはい出そうというのが私のScrapboxの利用方法である。

さいごに

というわけで、私にとってのScrapboxは最近ちまたでよく言われているPKM(Personal Knowledge Management)とはかなり違っている。そうでなく、Idea/Thought/Thinking FarmやCorfというニュアンスが近い。

もちろん、「素材置き場」という言い方をしてもいいが、それこそScrapboxということの意味なので、あえてパラフレーズして上記のような表現をしておくのがよいだろう。

(言うまでもないが、ソリッドステートという表現は攻殻機動隊インスパイアである)

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