見出し画像

僕たちそれぞれの方法に向けて

「まいにちdoda」という情報サイトに以下の記事が掲載されております。

当初は「タスク管理を継続させるために大切するべき考え方とは?」という問題提起からインタビューを受けたのですが、「いや、継続できなくて当たり前なんですよ」とちゃぶ台返しから始めた話が、とても面白くまとめられております。

基本的には、何かを継続するのは難しいので、タスク管理だってそれは同じです。だから、それなりに「策略」を持ってあたる必要があり、たとえそうであってすらなかなか継続できないよ、ということは前提としておいてよいでしょう。

で、一つ大切なのは、タスク管理を行う上で、「どういう状況だったら、タスク管理できているか」を自分なりに定義しておくことです。それがなければ、ある状況がうまくいっているのかいっていないのかが判断できません。それが判断できないなら、何を変えていけばいいのかもわからないでしょう。

そうなのです。「タスク管理」はすぐさま継続できるものではありません。言い換えれば、そこには過程と段階があります。だからこそ、目指すべきタスク管理の形が道標として必要なのです。

もし、何かの資格を取ればそれでタスク管理できると言えるのならばそうした道標は必要ありませんが、実際はそれがわかるのは自分だけです。自分の状態を、自分で見極めなければならないわけです。たぶん、そこが一番難しいのかもしれません。

でもって、本題です。

「そもそも、タスク管理において万人に通じる方法はありません。個々の性格や好みで異なるので、最終的には自分で方法を編み出すしかないんですね。よく1つの正解にこだわる人がいますが、時に正解は『こうしなければならない』『合わせなければならない』といった強制や義務を生じさせます。おそらくそれを感じた人は、タスク管理がしんどくなるはずです。そうならないためにも、本で示されたタスク管理の方法は土台の1つくらいに捉え、それを元に自分に合った方法を編み出してほしいです」

これこそが、私が『「やること地獄」を終わらせるタスク管理「超」入門』を通して伝えたかったことです。ただ一つの「正解」ではなく、その人それぞれの「方法」を立ち上げること。くしくもそれは、『独学大全』が全体を通して述べていることとも重なります。

これは、一つの大きなパラダイムシフトです。

すでにあるやり方・規範・ルールに従順に従うこと。たとえば、掛け算の順番を間違えないこと。たとえば、マニュアル通りにやること。たとえば、攻略法通りにやること。旧態然とした日本社会では、ごく当然のことだと思われてきたことです。そこから一歩でも足を踏み出すことは逸脱だと、ないしは悪しき行いだと断じられてきました。

しかし、もはやその旧態然とした日本社会は機能不全に陥り、言うことを聞いているだけで安定が約束される保証はどこにもありません。自分に合わないやり方にしぶしぶ従うことは、ほとんどノーメリットになりつつあるのです。

そして、現在「未曾有の事態」が訪れています。つまり、前例のない状態です。そのような状態では、当然のように「既存のやり方」に倣うことはできません。必然的に、新しいやり方をなんとか模索していくことが必要です。「自分の方法を作ること」は、まさにそうした力の土台となるものです。

誰か偉い人・成功者がいて、彼ら彼女らが「正解」を知っており、その教えの通りに行うこと、あるいは彼らが指さした道のりを、目隠しをしたまま歩いていくことは、たいへんリスクの高い行為となっています。それだけでなく、心地の良いものでもないでしょうし、多様性も抑圧されます。いいことなんて、どこにもありません。唯一「自分の頭で考え、判断し、その結果を引き受ける」という役割から逃げられるように感じられるだけです。

そういうのは、もう終わりにしましょう。

もちろん、今すぐ一斉に幕引きなどというのは望みすぎでしょう。むしろ、そんな速度で社会や文化が変化していけば、反動の方が怖くなります。それに気がついた人から、少しずつ変えていけばいいのです。その姿は、きっと誰かの視野に入ります。そうして、波は少しずつ、でもたしかに広がっていくのです。

これは、根本的な話です。

情報をどのように受容するのか、どのように物事を組み立てていくのか、どのように判断し決定してくかについての、ラディカルな変容です。師匠を変えなさいと言っているのではありません。師と自分の関係を見直しなさいと言っているのです。自分が自分の先生となり、多くの先生がそうであるように、自分の道行きをマネジメントしなさいと述べているのです。

とは言え別に絶対的な自律を説いているわけではありません。自責ですべてを担えと主張したいわけでもありません。他人との協調はとても大切なことです。ただ、どこかに「正解」があり、それを捉まえれば、あとは何の努力もしなく、たやすく成果が手に入る、という考え方を捨てましょう、というだけです。

あなたの正解は誰も知りません。誰も知らないものを、教えてもらうこともできません。ただ、自分が手を伸ばし、それを探していかない限り、手に入らないものである、ということを受け入れればいいのです。

たぶん、そういう訓練をあまり積んでこなかった人にとって、これは一大事業となるでしょう。国土全体に高速道路を張り巡らせるくらいの大事業です。だから、簡単にはいきません。時間もかかりますし、コストもかかります。でも、少しずつ始めることはできます。

それに「正解」などなく、自分で機能する方法を見つけるのは、パズル的であり、クエスト的であり、つまりはゲーム的な楽しさがあります。探究的、研究的な面白さがあります。Find the lightな日々があります。捨てたものではありません。

そうなのです。「正解」信仰よりも、こちらの姿勢の方がずっと楽しいはずです。一日を、そして人生を楽しめるはずです。少なくとも、私はそう信じています。

だから皆さんも、ありもしない正解を求めるのではなく、自分の中で機能する方法を探してみてください。そして、そういう日々の成果と発見を、可能であればシェアしてください。そういう社会の在り方を、個人的には切望しています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?