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きれいな喋りじゃなくても

テレビを見ていると、会話は実にテキパキと進んでいく。編集メディアならではの特性だ。あるいは台本を起点とした会話のスムーズさ。

そうした会話を見慣れていると忘れがちだが、現実の会話はもっとごちゃごちゃとしていて、ぜんぜんスムーズではない。

話がまっすぐにつながっていなかったり、行ったり来たりしたり、言いよどんだり、思案して沈黙したり、意見がぶつかったり、ぜんぜん違う話に飛び火したりする。ナチュラルな会話とは、そうしたものだろう。

僕がやっているポッドキャストは台本なしのアドリブ一本勝負である。だから、ぜんぜんスムーズにはいかない。非効率ですらある。はっきりした結論で終わらないこともあるし、ああだこうだと一つの事柄を巡る議論が続くことも珍しくない。テレビなら編集即カットな会話であろう。でも、ナチュラルな会話ではある。何も作っていないし、何も無理していない。ただ思いと考えを交錯させているだけだ。

整った会話ばかりを耳にしていると、あたかも会話とはそのようなものであると認識してしまうかもしれない。会話のロールモデルがテレビ的に構築されるわけだ。

そういうロールモデルが強すぎると、何かはっきりしたことを言わなければならないだとか、もたついてはいけないだとか、そういう感触を引きずってしまうことがある。でも、そういうスムーズな会話は「作られたもの」なのだ。あらかじめ整えられたアウトラインと、それに沿った会話。そうした会話は舞台の上だけに存在できる、儚い構築物でもある。

別にきれいな喋りじゃなくてもいい。言いよどんでも、考え込んでも、一つの言葉の定義を巡って議論してもいい。途中でちゃぶ台をひっくり返してもいいし、10分前に話した議題に戻っても構わない。むしろ、そのような会話こそがナチュラルな会話であり、あなたの「思い」と「考え」が表に出やすい会話である。

なにせ人間存在は──イデアではなく──、雑多なのだから。

断片的な会話の1シーンではなく、スムーズではないにせよ進んでいく会話の全体こそが一つの印象を形成する。私たちと高性能なbotを切り分けるものがあるとしたら、そのような全体的な印象であろう。断片に切りとられるとき、私たちはbotと見分けがつかなくなる。

だから、つつがなく、効率良く話を進めなくてもいい。むしろ、積極的に回り道しよう。効率性に反旗を翻そう。言葉と思いを尽くすやりとりの中にこそ、宿るものがある。神は細部に宿り、人間は全体に宿る。

もやもやしたものを含めて、私たちは私たちであるのだから。



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