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ノートは待ってくれる

たとえば、ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』に有名な一文があるとして、

ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。

日本語としてここに何が書いてあるのかを理解することは難しくない。「生命の意味についての問い」の問いの観点が必要であること。そしてそれが「すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題」ではなく「むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題」への転換であることは理解できる。

一方で、そのメッセージが何を意味しているのかがわかるとは限らない。少なくとも日本語が読めれば即座に汲み取れるとは言えないだろう。むしろ、その文章を読む人に何かしらの経験があり、その経験に基づいてはじめて「意味」が読み解けるようなところがある。

  (あるいは、そうして読み解けたとき、人は自らの体験を経験へと変じていけるのかもしれない。)

あるいはこんな風にも言える。こうした文章を読んだ後、何かしらの経験をしてはじめて、「ああ、あれはそういう意味だったのかと」わかる、腑に落ちる、判じる。そういうことが起こる。

その意味で、私たちが本や文章を読むことは、そのような後から遡及して理解されるためのフックを数々と仕込んでおくことと言えるかもしれない。何がどう実を結ぶかはわからないが、たくさん本を読んでいれば、後から「ああ、あれはそういうことだったのか」と理解することができる。そのような仕込んでおいた知識によって、自らの体験を解釈し、意味づけできるようになる、ということが起こりうる。自発的な人生の伏線仕込み。

私たちはまず日本語としてその文章を読み解き(第一次読解)、その上で自分の理解としてその文章を受容する(第二次読解)。

   (何も経験を有しない主体がいるとしたら、彼らは永遠に第二次読解へとたどり着くことはないだろう。)

その意味で言うと、これは「あっ、これって公文式でやったやつだ」というのは少し違っている。公文式パターンは、ようは第一次読解→第一次読解のスライドでしかない。そこには意味的な了解の変容は生じていない。単に先回りして学んでいたことが、そのように役立つだろう、という形で役立っただけである。

一方で、第二次読解は異なる。その情報を受け取った時点で、そのような意味づけ、位置づけが可能であるということが想像もできないことが可能になるのだ。

読書猿は『独学大全』および『独学大全公式副読本』の中で「書物は待ってくれる」(Books can wait)と述べた。たしかに本は、急かしたりはしない。読み手がページを来るその日まで、ずっと動かずに待っていてくれる。その速度感こそが、情報の濁流に巻き込まれがちな私たちにとっての防波堤になってくれるのは間違いない。

しかし、待ってくれるのは本ばかりではない。そこに書かれた文章もそうなのだ。それを読んだ私たちの中で文章は休眠し、しかるべきときにバチーンと覚醒してくれる。「ああ、あれはそういうことだったのか」と。その理解は決して冗長のものではない。つまり、どうせ後から知るのだから最初に読んでおくのは無意味ということもないし、本を読んだ時点でしっかり理解しておけばよかったと反省できるものでもない。その二つは、結ばれることではじめて結実したのである。

一体全体、そんなものを、費用対効果や生産性の指標で測定できるものだろうか。むろん無理に決まっている。それを行えば、歪な結果が生じるだけだ。

■ ■ ■

本は静的だ。

本は閉じている。

ダイナミックでオープンなメディアが溢れ返る現代にとって、極めて「時代遅れ」のメディアである。

私たちが改めて考えるべきは、そのようなメディアだからこそ担える価値があるのだ、という点なのだ。

言葉にされ、しかもそれが本として固着されると、情報は変化できなくなってしまう。息苦しい形に押し込まれてしまう。ソクラテスの懸念は、半分では正鵠を射ている。

一方で、その形で留まり続けるからこそ救える(掬える)ものがある。「いまそのとき」に制約されず、時間を超えることが可能となり、それが意図しない形で「役に立つ」ことがある。

個人が書くノートも同じだ。

ノートは、別に急かしてこない。何を書いてもまったく自由だ。しかし、一度書いてしまえば、それは固着化され、情報的自由度が失われる。それはそれで、半分くらいは損失なのだろう。そして、直接的に何も生み出さないし、広告料も稼がないし、PVも連れて来ないという意味では生産的ではないのだろう。

でも、それだからこそ担える役割があるのだ。

ノートを焦って役立てる必要はない。単にそのときそのときのノーティングを楽しんだり、コツコツ記述していけばいい。それは、「将来何かしらの役に立つぞ」という気持ちで本を読む必要はない、というのと同じである。

本を読んですごく感銘を受けた部分をノートに書き写してもいい。あるいは、「これは気になるんだけど、どういうことなのかちょっとわからない」という部分を書き写してもいい。そういう積み重ねが、自分の人生を第二読解する上で「効いてくる」のだと個人的には思う。

私たちは、たぶん人生を一度生きただけでその「意味」を読み解くことはできない。だからこそ、記録が必要なのである。

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