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ミニノートと共に生きる / 書き留めるノート

ポケットには、ミニノートを。

私の標語であKる。もう20年以上もそれをモットーに過ごしている。

KOKUYOの野帳

スマートフォンの日常化で出番はすっかり少なくなったが、先日発売されたビジネス用野帳のフィーリングがすこぶるよいのでここ最近は利用頻度が少し向上している。どれだけスマートフォンが便利になっても、紙にインクをにじませながら文字を書くのは心地が良い。人生に「心地が良い時間」を増やすのは、まったくもって悪いことではないだろう。

今日のミニノート

別にたいしたことを書いているわけではない。というか、「たいしたこと」ではないから、このメモ帳(あるいはミニノート)に書くのだ。内容を峻別せず、頭にひっかかった「!」や「?」があるならば、それを書き留める。

むろん、書き留めただけで事態が好転することはないし、願いが叶うこともない。単なる備忘録である。着想の備忘録。

ここに書き留めたものから、カレンダーやタスクリストに転記することがある。アイデアとして原稿に反映させたり、自作ツールの「次に実装したい機能」に加えたりもする。しっかり文章化してScrapboxに保存したり、あるいはそのままTweetしたりもする。

ただそれだけの装置だ。記法も特別なものは何もない。以前は「記入は右ページだけ」というルールを作っていたが、今はそれもなくなった。唯一は「日付を書き込む」というフォーマットだけ。それ以外は自由に書き留めている。そういう「自由さ」が担保された場所が、人間の思索には必要ではないか、などと大げさなことを考えたりもする。むろん、そういうことを思いついたら、それもこのメモ帳に書く分けだ。「人間の思索には、メモ帳が必要である」などと。

こうしたメモ帳は、「メモ」というものの性質上、"賞味期限"はさほど長くない。手早く処理してしまわないと、自分が何を言わんとしていたのかが綺麗さっぱり失われていく。そうなると、備忘録ですらなくなる。単なる走り書きだ。

だから、昔のメモ帳なんて、何の役にも立たない。少なくとも「実用性」という面で言えばそうだ。しかし、私はそのメモ帳たちを捨てられずに残している。たまに読み返すこともあるが、それで特別なイベント──たとえば「劇的なアイデアとの邂逅」──が起こるわけではない。ただ、懐かしく読み返すだけだ。

ミニノートの墓場

しかし、過去の思想家の断片的なメモ書きに価値が宿るように(たとえば、パスカルの『パンセ』)、自分のメモだって過去のメモ書きには価値が宿る。たしかにそれは備忘録としての役割はもう果たせない。自分が何を言わんとしてたのかを再現できなくなっている。一方で、だからこそ、それを「面白い」と感じることができる。そのときの自分の意図とは違った解釈が可能となる。アイデアとの「邂逅」はできなくても、アイデアの「創出」は可能なのである。

ここには二つの価値(あるいは役立ち方)が交錯している。一つは、短期の自由なメモとして。もう一つは、あたかも他者の断片であるかのような刺激剤として。

情報とは面白いものである。書かれたものは固着されていて何一つ動いていないのに、たしかにその性質は変化するのだ。当然それは、情報を受けとる私たち自体が変化しているからだ。

周りに何も存在しない宇宙空間を漂っているとき、私たちは自分の位置を定められないだろう。だとすれば、私たちが変化するものだからこそ、まったく変化しない情報というのが、一つの参照点になるのかもしれない。変化していることを感じ取れるためには、変化しないものが必要なのである。

ともあれ、ここではそんな大げさな話は必要ない。単に私たちは忘れっぽく、備忘録を常備していないと、日常的に困ったことになることが多い、ということさえ自覚していれば、ミニノートは人生の強力なパートナーになってくれるだろう。

なんでも、必要になりそうなものはメモしておけばいい。それと共に「必要になりそうなもの」に敏感になっていけばいい。

そのようにして書き留める生活を続けていけば、その「足跡」としてミニノートは残っていく。その「足跡」が、他の誰かにとって別の情報になることもあるかもしれないし、ないかもしれない。

情報は常にそのような不安定さに晒されている。だからこそ、面白いのだ。

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