見出し画像

第十五回:攻めの情報整理、守りの情報整理

ここまで、さまざまな情報整理について検討を進めてきた。おさらいしておこう。

まず、情報整理とは「情報を適切に配置し、必要に応じて取り出せるようにしておくこと」を意味する。その目的をサポートするためのあらゆる行為が情報整理である。

そうした情報整理は、個人的活動であれば以下の対象を持つ。

・スケジュール
・Todo
・資料
・アイデア

これらは情報の性質や利用方向が異なるがゆえに、整理の仕方も違ってくる。言い換えれば、「適切な配置」や「必要に応じて」が情報ごとに違ってくるので、整理のやり方もそれに合わせて変える必要がある。

よって、単一の整理手法ですべての情報整理がうまくいくわけではない、ということが言えるし、加えてそれぞれの人によって情報整理のシステムが変わってくる、ということも言える。

まったく同じ情報でも、人によって用途が異なるということは十分ありえる話だ。たとえばラーメンを撮影した写真は、ある人には単なる日記であり、別の人には食事のコレクションであり、別のある人には研究の材料、ということがありえる。当然、それぞれに適切な扱い方は変わってくる。「ラーメンの写真はこのように整理しましょう」という画一的な方法論は通用しない。

つまり、この問題を真剣に考えれば考えるほど、誰かの教える方法はそのままでは役に立たないことが見えてくる。特に「すでに著名人であり、一般人とは活動の質や方向性が異なる人」であればあるほど、直接的な有用性は下がる。不思議なことに、そうした「成功者」の方法論ほどありがたがられるのだが、「整理」について言えば、そのような姿勢とは距離を置いた方がよいだろう。情報整理とは、もっと個人的な(パーソナルな)行為なのである。

シンプルな結論

そうすると、結局のところはそれぞれの人が、それぞれの整理法を確立するしかない、シンプルな(あるいはシンプルすぎる)結論になる。これはもうどうしようもない話だ。

前回「気になること」をそのままタスクにするのではなく「考える」という行為を挟み込むことの重要性を説いた。そしてこれは、「気になること」の扱いに限るものではない。私たちが行う「整理」全般に言えることなのだ。誰かが言ったやり方に盲目的に(つまり、考えることなく)従うのではなく、「自分」はそれらの情報をどうしたいのか、「自分」にはどんな道具が使えて、どんな制約があるのかを、じっくり腰を据えて考えていかなければ、なかなか「自分の情報整理」というものは確立できない。時間も手間もかかる行為なのである。

とは言え、先ほども延べたように、整理の対象自体はそこまで複雑にはならない。行動・思考/短期・長期といった軸で分類できるだろうし、その分類の中では、基本的な指針は共有できる。そこは「ベーシック」の確立が可能だろう。一方で、その指針を具体的に実装する段になると、共通的な話は非常に難しくなる。人の置かれた環境は異なり、好ましい道具も違ってくる。そこは、常に現場適用で進めるしかない。むしろ、そうした適用こそが、この分野の一番「おいしい」ところである。

攻めと守りの情報整理

付言するならば、情報整理については「攻めの情報整理」と「守りの情報整理」の二軸が考えられる。

「守り」の方はイメージしやすいだろう。知人の住所など、忘れてはいけないもの(=忘れてしまうと不都合が生じてしまうもの)を、先回りして押さえておくための情報整理である。広く言えば、備忘録的な情報整理である。私たちの一般生活で一番役立つのがこの情報整理であることは間違いない。一方で、そうした情報はインターネットを検索すれば事足りることも増えた。なんなら「とりあえず、パソコンなりノートツールに保存しておけば、後から検索で見つけ出せる」という環境も整いつつある。そういう局面においては、ノウハウはほとんど不要である。とりあえず、保存して、検索できるようにしておけばよいだけだ。

一方で、「攻め」の情報整理はイメージがしにくいかもしれない。これはいわゆる「知的生産」に関わる整理だからだ。新しい情報を生み出すための、情報整理。

そうした整理は、極論すればやらなくても構わない。やっていなくても不都合が起きるわけではない。書き留めたネタを少しくらいロストしても、別の場所から適当に見繕ってくればいい。それで原稿用紙のマス目は埋められる。それでタスクをDoneにすることも可能だろう。

にも、かかわらず。

そう、そうであるにもかかわらず行われるのが「攻め」の情報整理である。プラスアルファを生み出していくための行為、すなわち知的生産である。

この関係性は再帰的なものだ。つまり、私が自分の知的生産活動のために情報を整理することがあり、その上で、そうして生み出された知的生産の成果物は、より広い視点から見たときにも情報整理になっている。自分だけで完結して終わりになるのではなく、他者に対して開かれた価値を有するのが「攻め」の情報整理であると言えるだろう。

びっちりした整理じゃなくても

とは言え、もう一度言うが「攻め」の情報整理などまったくやらなくても人生は成立する。効率第一で考えれば、おそらく「余計なこと」に分類されるのがこうした整理である。

だから私は万人にこれを強制しようとは思わない。単に、そうしたプラスアルファを求める人ならば心がけておいた方がよい、というだけだ。とは言え、あまりにこの整理に躍起になりすぎて、生活を見失うようなことがあっては欲しくない。最低限機能する程度の、ほどほどの整理で十分なのである。

なくてもかまわないが、でも面白そうだからやってみる、という心積もりで当たって欲しい。それが最後の注意点である。

さいごに

というわけで、ここまで「情報整理」について、さまざまな観点から検討してみた。

次回からは、具体的なツールの話を踏まえて話題を展開してみよう。

(つづく)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?