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『人を賢くする道具 』「第2章 世界を体験する」のまとめ

概要

人間の認知にはさまざまな形があるが、テクノロジーとの関係で捉えたときに体験的認知と内省的認知という捉え方は有効である。なぜならテクノロジーはその認知を一つの極に向かわせる傾向があるからだ。

それぞれの状況において必要な認知と、道具が与えるモードが合致していないとき不幸な状況が生まれる。また、単一の認知だけになっている状態も好ましくない。うまく認知が組み合わされることが大切。内省的認知は、それ自身では力が弱いのでテクノロジーのサポートがよりいっそう必要だと言える。

かなり複雑なタスクの達成に人を向かわせる、という意味ではゲーム(ビデオゲーム)はうまくやっている。体験を演出するだけでなく、内省となる鍵も与えている。なんであれ、動機があれば人はそうした探求を自分ひとりでもやってのける。動機づけは非常に重要。

その意味でゲーム的な要素と、教育的な要素を効果的に組み合わせることが必要だろう。

整理

著者は、認知をおおまかに体験的認知と内省的認知と分けてそれぞれの作用を探っている。また、学習も蓄積(accretion)・調整(tuning)・再構造化(restructuring)の三種に分類している。

表面的にはこれらに順列は設けられていないが、文章の節々から内省的認知および再構造化が重要であるという著者の考えが感じられる。体験的認知ばかりが強化されていて、内省的認知が軽んじられている社会の風潮への危惧もそこには含まれているだろう。

著者が原著を書いてからかなりの年月が経っているわけだが、状況はどのように変化しただろうか。一部において体験的認知はより強化されているが、体験的認知でも内省的認知でもない、漠然とした時間の使い方も増えているかもしれない。それは現代的な問題でもあるだろう。

ともあれ、いかに二つの認知を強化するのか、そしてそれらをどのように結びつけるのかが本書の引き続きの課題であろうことは予想できる。

コメント

著者はテクノロジーは、一つの認知だけを強めてしまうと述べた。そしてそれはエンタテイメントに代表されるような体験的認知だけの強化として本書では注目的に言及されている。

では、内省的認知だけを強化してしまうようなテクノロジーはあるのか、そしてその弊害とは何か、という問題設定ができるように思う。

もちろん、相対的に見て内省的認知の方が働きにくいのでそれをエンハンスするのは良いのだが(アファーマティブ・アクションのようなものだろう)、一方で内省的認知ばかりが強まりすぎてしまって体験的認知がおろそかにされてしまう、ということも弊害をもたらすだろう。

でもって私はそれを「言葉」というテクノロジーに見ている。本書の議論からズレるので深くは掘り下げないが、それでも念頭においておきたい話題ではある。

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