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第八回:本は自由に読んでいい

本を読むことは、自分の中に出来事を発生させることです。体験が生じ、経験の土台になる。そんな現象を引き起こすことです。

人が生きるという現象に「正解」が無いように、本を読むことにも正解はありません。「正しい」本の読み方は、限定的な環境の中でしか成立しないのです。

だから本は自由に読みましょう。

自分の好きな本を選び、自分のやりやすいやり方で、自分にフィットするスピードと深さで読みましょう。

むしろ、話は逆なのかもしれません。そのような読み方が「自由」や「自分」を立ち上げる読み方なのです。

自分という現象

「我思うゆえに我あり」(Je pense, donc je suis)という言葉で有名なデカルトは、自己の存在の絶対性を自意識の活動に定めました。他のどんなものが疑わしくても、それを疑っている自分だけはたしかにそこに「在る」だろうと宣言したのです。

もちろんそれを存在論的に肯定していいのかは、わかりません。しかし、私が何かを思っているとき、その「思っている」という現象が生じていることだけはたしからしいと言えるでしょう。つまり、「私」という確固たる存在はあるかどうかは別にして、何かを感じ、考えるという現象はそこに必ず付随しているのです。

むしろ、私は話を逆転させて捉えたいと思います。つまり、そのような現象こそが「私」なのだと。確固たる「私」という存在は、その現像の連続性が引き起こす錯覚のようなもので、実は実体はないのだと、と。人間が持つイデア的な知覚の偏りが、そのような存在を幻覚させているのだと。

ここで私が却下しようとしているのは、先天的であり、固定的な「私」という存在です。確固たる「私」という存在です。しかし、仮にそういうものがなくても、そこに連続性が生じていることは間違いなく、その発生を担保しているのは器官の連続性です。つまり、現象の発生源である器官が同一かほとんど同一であると見なせるから、「私」という現象に連続性が発生し、それが「私」という存在が連続的であると感じられるその感覚を引き起こしているのです。

因数分解できない自分

話が込み入ってきたので、いったん数学の話をしましょう。因数分解です。

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因数分解は共通の項目を抽出し、括弧でくくる行為です。

ここで「反応」について考えましょう。人間の反応は、だいたい共通しています。熱いものに触れれば手を引っ込めますし、恐怖を煽られれば守りの気持ちが強くなりますし、赤い色を目にすると興奮が高まります。どれもこれも、生物的な反応であり、言い換えれば、人間であればだいたい共通しています。つまり、括弧でくくれるのです。

さて、個性です。個性とはその人自身を特徴づけるものです。言い換えれば、「人間であればだいたい共通している」要素ではない要素です。言い換えれば、括弧でくくれない要素です。

人間の行動は、生物的に共通した反応と、そこにカテゴライズされない(括弧でくくれない)活動でなりたっています。その二つが「私」を構成しているのです。

押し流される自分

もし、生物的に共通した反応が強くなり、そればかりになってしまうとどうなるでしょうか。どんどん括弧の外が増えていき、最終的には括弧の中身はなくなってしまうでしょう。つまり、差異(個性)が消失するのです。

情報の濁流にさらされ続けるのは、まさにそのような状態を引き起こします。情報の発信者にとって制御しやすい反応は生物的な反応(怒りや同情)であり、情報の濁流とはまさにそのために最適化された膨大な情報発信でした。そのような情報発信を受け取り続ければどうなるでしょうか。

括弧の中身はどんどん縮小していきます。「私」という現象のアイデンティティーを支えるものが消失し、どんどん不安定になっていきます。

だからこそ本を読むのです。自分を立ち上げるために。括弧の中身を確立するために。

(つづく)


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