セルフ・ブラックホール
一見有益そうに思えて、その実あんまり役に立たない。むしろ有害ですらあるアドバイス、というのは結構あるものです。
「情熱を探そう」というアドバイスはもうやめよう – Taka Umada – Medium
Fit Mindset の人たちは最初から直観的に情熱を持てるような活動や職を見つけることによって幸せを得られると信じています。
thinな自己啓発書によくある言説ですね。ほんとうによくありすぎて、どれがどれだか見分けられないくらいです。
でもって、ここにはいろんな要素が絡み合っています。まず、直観的に対する極度の信頼性。直感的に得たものなら、それは絶対的に正しい、というような信念がそこにはあります。しかし、『ファスト&スロー』に代表されるように、人間の直感、つまりシステム1によって提供される感覚はかならず正しいわけではありません。かなりの部分でうまく機能しますが、それは経験を積み、脳が認識できるパターンが熟練している場合だけです。ヘビなどを怖がるのは、その経験をDNAが積んでいるのだと、表現してもいいでしょう。
一方で、「あなたの人生」は、これまで誰も生きたことがありません。あなた自身でさえ、明日の一日を生きたことはないのです。そんな対象に対して直感がどれだけうまく機能するでしょうか。
しかしながら、直感というのは、ほんとうに恐ろしいくらい、「確からしく」感じます。それが正しいと感じられてしまうのです。これが二つめの鍵です。つまり、感情優位、いや感情信仰がここにはあります。思索や理性よりも、感情を上位におくこと。
よく、thinな自己啓発erが、「Don't think,feel.」という有名な言葉を引用しますが、彼らにとってこれほど都合がよい言葉はありません。ようするに「俺の言っていることを、疑うな」ということですから。もし詐欺師がその言葉を説得力を持って語れるなら、いつでも財布はパンパンでしょう。「正しいと感じられたら、それは正しいんだ。どんだけお金を使っていても、それで本人が満足しているなら、何が問題がある? でもって、満足しているかどうかなんて些細なことを考えてはいけない。今この瞬間に幸福は満ちているのだから」。いやはや最強です。
でもってこの話は、共感の時代という話にも接続します。理性的な判断や、熟慮を経た議論ではなく、「感じ」だけで話を進めてしまうこと。現代版の「空気」であり、むしろもっと強い志向性を有しているかもしれません。この辺は、『無責任の新体系』『感情化する社会』『矛盾社会序説』あたりで掘り下げられるかと思いますが、社会的な話に嵌り込むのはさけて、自己啓発のやり口にも目を向けましょう。
上の記事にこうあります。
ときには情熱を探そうとして原体験のようなものを探してしまうこともあるかもしれません。
これを積極的に促すアプローチもありますね。でも、これもまた危うさがあります。
自分の性質について回答するのも自分ですし、過去の自分の出来事を掘り起こすのも自分です。でもって、そうした行為に意味付けするのも、やっぱり自分です。そして、脳神経学の本なんかを読んでいるとよくわかるのですが、人はほとんど滑稽な「物語」を、無理矢理こじつけるのが得意です。ほんとうに、おどろくぐらいの力技をやってのけます。人間を定義づける仕方はさまざまありますが、私はそこに「人間とは物語る動物である」という一文を加えてもいいとすら思います。
でもって、そうした「物語」は、直感的に脳内にひらめくのです。コンボです。合わせ技です。そして、圧倒的感動のもとに涙が流されるのです。嗚呼、自分の「情熱」はここにあったのか、と。
でも、それは歪んだ記憶と、感情によって生成された虚構でしかない、という可能性がいつでもつきまとっています。今その瞬間そこに存在しており、そこから未来に向かって進んでいくその人間とはぜんぜん関係ない幻想が広がっているかもしれません。それを頼りに歩いて行く? まあ、それも選択の一つです。そうしていると、わかっているならば。
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さて、ここまでの話は『「やること地獄」を終わらせるタスク管理「超」入門』で書いた「セルフ・マネジメントとは、自分が自分を管理することであり、その主体としての自分は完璧完全な存在ではないのだから、常に過ちが含まれている可能性がある」という話に集約できます。
自分の情熱を見つけようとすることも、天職を見出そうとすることも、それが意識的に行われる限りはセルフマネジメントの一環です。で、その主体者である自分は、常に正しい答えを出せるわけではなく、バイアスに影響され、感情によって記憶を歪めてしまう(あるいは現在の感情に沿うように記憶を再構成してしまう)存在です。
で、そうした自分に合わせて、自分をマネジメントしてしまう。再構成してしまう。そういう危うさがあるわけです。上司が無茶な命令を出し、部下が体をこわすまで働いてそれを達成する。そうしたことの「自己版」が起こりうるわけです。それを一番極端な形で描いたのが映画『メメント』でしょう。
※この映画からも、記録すら完全な導き手にはなり得ないことがわかります。信頼できない語り手ならぬ信頼できない記録があるわけです。
究極的に言えば、そうした状況は「自分という檻」から抜け出られていないと言えます。その瞬間の自分が認識する「自分」というフィールドの外には一歩も出ない。瞬間的な感情、瞬間的な記憶の想起。そうしたものの内側に留まること。
上の記事もこうあります。
つまり「自分にぴったり合う情熱があるはずだ」という思い込みによって、彼らは探索の幅を狭めてしまう傾向にあるのです。
自分が理解できないことは無視する。自分が嫌っているものは徹底的に疎外する。自分が好きでないことには取り組まない。
これらすべての「自分」に「今の」という限定がつきます。つまり、「自分」というものが変化しないという前提に立ち、その前提が決して崩れないようにセルフをマネジメントしていくのです。その力があまりにも強くなると、その牢獄はまるで光すらも逃げられないブラックホールのような存在へと変質してしまうでしょう。そうなると、戻ってくるのはかなり難しくなります。
というのも、変化のためには自己否定が必要で、しかし、自己否定を拒否しているからこその自分の檻であるからして、そのままではずっとその場所に止まることが確定しています。比喩的に言えば、その檻自体が自分の一部であり、檻を壊して抜け出すことは、自分の一部を壊すことと同値である、ということです。
場合によっては、相当の痛みがそこでは生じるでしょう。ユージオの右目の痛みのような。
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もちろん、完全なる調和は、そのブラックホールの中にしかないのかもしれません。すべてを飲み込み、やがて自己認識が世界と同一になれば、すべての対象が「我が物」となります。自分の思い通りに物事が進まないと途端に怒り出す人は、その同一化が結構進んでいる状態と言えるでしょう。
そうなのです。その調和は、精神の中だけの調和です。一番の問題は、現実世界がそんな風には成立していないので、かならず齟齬が生じるといったところでしょうか。永遠に逃げ込めるマトリックスがない限りは、その問題に常につきまとわれることになりそうです。
▼another way:
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