憎悪の世界への手紙

結城メルマガ2018年10月16日 Vol.342にこんな話があった。

対数の話。

「対数なんか役に立たない」という意見をネットで見かけました。

役に立たないという方は「対数」が何かをよく理解していないで言っているのだろうと思います。

私はこれを読んで、こんなことを思った。だいたいどんな事柄にも何かしら「役に立つ」とは見つけられるものである。言い換えれば、完全に役に立たないというものはまずない。長く接していれば、役にたつ要素は何か見つけられる。言い換えれば、価値を見出せる。つまり、役に立たないと簡単に切り捨てる人は、その分野に疎い人か、まだ触ったばかりの人なのだろう、と。

次に、この記事を読んだ。

こんなことが書いてある。

いや、この「全作品を読む・見る・聞く」システムは、相手をリスペクトする以上の意味がある。相手を理解し、好きになることができるのである。以前、元大阪府知事・市長の橋下徹の言動にむかついて、批判してやろうと思い、やはり彼の全著作を取り寄せた。そのかなりの部分が絶版になっていたが、努力して集め、そして読んだ。そしたら、すっかり橋下氏が好きになってしまったのだ……。書かれた言葉には(どんなにひどくても)、その個人の顔が刻印されている。全部読んだら、もう知り合いだ。憎む理由がなくなってしまうのである。おれは、ヘイトスピーチに象徴される憎悪の連鎖を止めるヒントはそこにあるのではないかと思っているが、まあ、その件は、いまはおいておこう。

何か似た響きを感じるではないか。

全部読んだら、もう知り合いだ。憎む理由がなくなってしまうのである。

この感覚はとてもよくわかる。もちろん、憎々しい部分や、これはちょっとなぁと思う部分は残るだろう。しかし、全体としての印象にそれらは吸収されてしまう。雑にいえば、「いろいろな側面があって、この人は成立しているんだ」という感触を覚えてしまう。自分と共通する部分だって見出せるかもしれない。価値を見出せる部分は、何かしら見つかる。

だからこそ、高橋氏の指摘は100点満点で的を射抜いている。

おれは、ヘイトスピーチに象徴される憎悪の連鎖を止めるヒントはそこにあるのではないかと思っているが、まあ、その件は、いまはおいておこう。

そして私はだからこそ、その連鎖は止められないのではないかと陰鬱な気分になる。

何かの対象を深く知るには時間がかかる。「全作品を読む・見る・聞く」システムは高コストだ。

現代人は、そのコストを支払えるだろうか。

片方では、ソーシャルメディアがあり、「何かをよく理解していない」状態で言葉を発することができる環境がある。その環境自体は、インターネットの整備とともにスタートしていたのだが、黎明期にはまだ発言の権威は生きていた。「あの人は、この分野に詳しいから、しっかり聞こう」という気構えはどこか残っていた。発言主がハンドルネームであっても、発言の連続性が確認できるがゆえに、まともなことを言っている、言っていないという判断ができた。

しかし、ソーシャルメディアがもたらしたフラット化はそのような権威を剥奪した。RTを多く集めた発言が、オピニオンリーダーなのである。その人の過去の発言などは一切気にされない。これは、RSSリーダーが衰退し、どんどんSNSやニュースアプリが使われるようになっていることも当然のように呼応している。

それだけではない。単に、「何かをよく理解していない」状態で言葉を発することができるだけではなく、むしろそれが要請されているようなメディアの「空気」もある。つまり、状況があれば即座に発言してトップバッターに立ったものが勝者になる、ということだ。

いっそ、「何かをよく理解していない」状態で言葉を発した方が偉い、というどうにもつかみどころのない考え方すらあるのかもしれない。なぜならば、よく理解していない人間ほど、過激なことを安易に発言してくれるからだ。メディアの権威がPV数に置き換えられたとき、必然的に生じる事態だったと言ってもいい。

こんな環境で、はたして対象のことをじっくり知ってから発言する、という行動が促進されるだろうか。

前からそれができる人の話ではない。今このメディアの空気を胸いっぱいに吸い込んでいる人間の、これからの話である。

当然、メディア環境は一様ではない。さまざまな要素があり、ベクトルがあり、意図がある。「対象のことをじっくり知ってから発言する」ことが大切にされる空間ももちろん存在しているだろう。何かをリスペクトしているというよりも、リスペクトすることの価値を信じられる空間ということだ。

一方で、日々大量の情報が押し寄せてきて、それをさばくのにいっぱいいっぱいになり、すべてが刹那的・断片的にならざるを得ないような環境もあるかもしれない。

そうした環境を自分の意思だけで選びうるかどうかはわからないが、意思だけでは弱いのではないか、というのが個人的な感想である。環境が人に与える影響は思っているよりもずっと強いものだから。

かくして断絶が生まれる。憎悪する世界は、憎悪という糸でつながり、リスペクトする世界はリスペクトという糸でつながる。そして両者の世界はだんだんと交わる点を失くしていく。


私たちは巨大なアーカイブを手にしている。そう望むなら、誰かの「全作品を読む・見る・聞く」ことは徐々に容易になりつつある。

しかし、そのアーカイブはまったく違うように利用することもできる。断片的、断絶的に「つまみぐい」するのだ。なんならアルゴリズムがあなたに最適な「つまみぐい」を提供してくれるだろう。当然そこに重みが生じることはなく、いつでも別の何かに取り替えが可能である。Newというバッチが、その価値を保証してくれるのだから。


私たちにとって、対象を深く知ることにはどんな価値があるだろうか。

資本主義の時代ではお金の量よりも、お金の使い方が成果を決定した。だとしたら、情報主義の時代では、情報の使い方が成果を決定するだろう。これはほとんど自明のことなのだが、問題は「どんな使い方が」という話が、まだ十分には検討されていない点である。

そして、仮にそれが検討されたとしても、憎悪の世界にその手紙が届くのかは私にはまったくわからない。

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