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情報カードをリライトするとはどういうことか

内容的にはUnnamed Campに書きたい気持ちもありますが、ひさびさにnoteで記事を書きたくなったので、ここでレスを書いてみます。

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すでにポッドキャストで話した内容がおぼろげであり、しかもここ2週間くらいでいろいろな考えが変転しているので、ちょっとごちゃごちゃしそうですが、とりあえず「京大式カードに書いた小さい論文は、変化させないことが重要」という点について、Scrapboxと絡めながら考えてみます。

まず、そもそもとしてアナログの京大式カードに書いたものを書き直すことが難しいということがあります。これは単にツール的な制約ですが、だからこそ、そこに何をどう書くかがアフォーダンスされる点はあると思います。追記などを必要とせず、頭から終わりまで読んで意味がとれる文章を書く気持ちにさせる、ということです。

基本的にそのような文章は、複雑に絡み合った事象を表現するというものではなく、頭の中に浮かんだ概念や思いを「ワンアイデア」としてまとめるものだと理解します。もともとさまざまにつながっている物事をザクっと切断して、切りとるようなそんな概念的イメージがぴったりです。

そのような切断を通して、ワンアイデアとして固着させること、もしくは固着したものとして扱うことが「京大式カードに書いた小さい論文」(以降豆論文とします)の扱い方というのが最初の一歩です。

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では、そのような豆論文は、「概念的変化」を拒絶しているのかと言えば、そうではありません。いや、そうではないと最近気がつきました(これがここ2週間で起きた変化)。

梅棹はカードを「くる」ことが大切だと言いました。それは別にカードを裏に並べて神経衰弱のように二枚ひっくり返して、「あたり」か「はずれ」を判定するようなゲームをすること、ではありません。組み合わせを変えて新しい発想を促すような要素はあるでしょうが、それは本来の用途ではないのです。

では、本来の用途とは何か。

カードを「くる」ときにやっていることは何か。極めて明瞭なことで「カードを読み返す」です。単にシャッフルして遊んでいるのではなくて、ランダムに読み返すことがカードを「くる」ことの最大の目的です。

そして(手元に本がないので引用できませんが)梅棹は、そうして豆論文を読み返して、何か新しいことを思いついたら、それもまたカードに書くのだと述べました。このあたりの記述が十分ではないので、私はそれを「カードの新しい組み合わせによって新発見が生まれたら、それも新規カードとして作成する」ことだと思い込んでいたのですが、Scrapboxを使っていて思い直しました。たしかにそのような新発見もあるでしょうが、それだけでなく、単に昔書いたカードを書き直したくなったら、それを新しいカードとして書き直すことも含まれているのだ、と。

この発見は、電流に直すとだいたい1万ボルトくらいになると思います。

豆論文を書くことは、豆論文を書き直さないことを意味しません。むしろ逆です。書き直しを促す為に豆論文をとりあえず書くのです。

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Scrapboxの話をします。最近はじめたUnnamed Campは自分的にも面白いプロジェクトになっていますが、そこでのページの作り方が実に独特です。

まず、タイトルをつけて本文を書きます。そのまま説明が出てくることもあれば、疑問や箇条書きを書きつけただけのものもあります。そして、その後「考え」ます。そのままの状態ではどうもしっくりこないので、「いい感じ」になるように手直しを続けます。その作業は、かなり手間がかかり、知的負荷が生じます。10行くらいのページに30分くらいかかることもあります。

冒頭に引いた記事の以下のような状況に等しいだろうと想像します。

もちろんこれは、個人差も大きいと思います。でも、出版する文章を推敲するように、ぼくはカードに書いた文章を、少なくとも2回くらい推敲することで、思い込みに気づいたり、論理的におかしい点に気づくことが多く、そこから新しい一連のアイディアが出てきて、ひとつの研究テーマに育つこともあります。

Scrapboxでも、この段階でさまざまな変化が起きます。そりゃもう慌ただしい変化です。タイトルが書き変わることなどざらで、もっと混沌した変化が何度も生じます。

タイトルAで本文を書き始める。内容が膨らんできてワンアイデアではなくなる。むしろ膨らんできた方が自分が言いたいことではなかったかと思い至る。そこで書いているページのタイトルをBに変えて、タイトルAに相当する内容は別ページとして切り出す。

みたいなことが起こります。「タイトルA」のページとして書き始めたら、タイトルBのページを作っちゃっているのです。しかしそれは、「タイトルA」のページを書き始めたからこそ生まれたものであり、それを抜いてステップを着地させることはできなかったでしょう。

ここで私は思い至ったのです。そうか豆論文を書くとはこういうことであり、カードをくることとセットになってその効果は発揮されるのだと、と。カードを「新しく書く」とは、新規概念の創出ばかりでなく、既存のカードの書き直しも含んでいるのだ、と。

もしかしたらこの「カード法」の理解は、梅棹の想定を超えてかなり私がScrapboxに引きつけているのかもしれません。しかし、そのような視点に立てば、アウトライナー・情報カード・Scrapboxの「いい感じの使い方」に一定の共通性を打ち立てられるような気がしています。

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たぶん、アウトライン・プロセッシングもScrapboxing(Scrapboxをいい感じに使うためのノウハウ群)も、情報処理における大切な部分はきっと共通していると思います。ただ、それをサポートするためのツールやそのUIが違っていて、それはそれぞれの人の情報処理におけるある種の「癖」が影響しているのだと思います。

だから、アウトライナーやScrapboxなど、さまざまな「癖」に対応できるツールがこの世界に存在しているのはとても嬉しいことです。

とりあえず、本稿の真ん中で紹介したScrapboxのページの作り方は、私の中では結構(というかかなり)エウレカ体験でした。この感覚についても、またどこかで書いてみたいと思います。

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