21.何の保証もなくても。
「どうした、いきなり電話かけてきたかと思ったら、死にそうな声で」
「お願いです、助けてほしいです......」
俺の様子にただごとではないと思ったのか、少しの沈黙を挟む。
そして、相変わらず無愛想で低い声で言った。
「今から1時間半後に最後のセッションが終わるから、俺の事務所に来れるか?」
「はい......」
「落ち着いて、安全第一で来いよ」
「ありがとうございます...... ユンギヒョン」
張り詰めていた気持ちが少し解けて、うずくまっていた玄関にそのまま崩れ落ちた。すぐにメッセージで住所が送られてきたけど、力が抜けて、しばらくそのままだった。
***
ユンギヒョンは昔、すごく繊細で完璧主義で、精神を病んでしまったことがあった。俺と一緒にいるときは、ヒョンとしての威厳なのかそういう素振りは見せなくて、よく面倒をみてくれていたけど、きっとつらい時期が長かったと思う。
そんなヒョンもいつしかすっかり大人になって、これもまったくそういう素振りを見せなかったのだけど、いつの間にか好きな音楽をしながら、心理カウンセラーの資格をとっていた。そして、郊外のマンションの1室にカウンセリングルームを開業していた──と知ったのは、それが軌道に乗ってから。基本、いつも事後報告。それもヒョンらしい。
夜の道路を、自転車で行く。
秋めいた夜風が気持ちよくて、さっき柄にもなく取り乱していた気持ちがようやく少し落ち着く。
ハンドルにかけたビニール袋には、俺とヒョンのコーヒー。腹減ったかなと思ったけど、カウンセリングルームで飯食って匂いが残ったらダメだし、なんなら一緒に飯行けばいいし。
《ユンギヒョン、着きました》
マンションの駐輪場でLINEする。返事はすぐに来た。
《入っていいぞ》
綺麗な分譲マンション。エレベーターに乗って10階を押す。
ずっと前に一度来たことはあったけれど、そのときはユンギヒョンの忘れ物を一緒に取りにきただけだったから、ちゃんと入るのは今日が初めてかも。というか、職場にこうして来てしまって、なんだか申し訳ない。今更。
インターホンを押す。
ユンギヒョンはすぐに出て、「鍵開いてる」とだけ言ってぶつ切りした。ドアノブを回すと、言われた通り鍵がかかっていなくて、いろんな人が来るしなぁと納得した。
「鍵閉めといて」
まだ初秋なのに、もう薄手のニットを着ているヒョン。対して、半袖白Tシャツの俺。季節感がバラバラなのも、今に始まったことじゃないけど。
「思ったより元気そうで安心した」
「あー... すみません。さっき、取り乱して...」
「おまえが取り乱すなんてめずらしい」
ヒョンの後について、濃いベージュのカーペットが引いてある部屋に入る。奥に二人掛けのソファ、木目のローテーブルを挟んで手前の一人掛けのソファがある。入って左横は本棚で、心理学の本がたくさんあった。
「わあ...... 本屋みたい」
「本当は書斎に置きたかったんだけど、スペースなくてな」
「ここでカウンセリングやってるんですか?」
「ああ」
ヒョンらしくない、柔らかい色調の部屋だと思ったけど、それを聞いて納得した。そして、カウンセリングルームにしてはシックな色合いなのかもなと思い直した。
俺は差し入れのコーヒーを真ん中のテーブルに置いて、奥のソファに座る。
ここでいろんな人が座って──その多くは心の病を抱えた人で、ユンギヒョンに打ち明けて、より良く生きるために努力しているのかな。
ふと前を見るとユンギヒョンは一人掛けのソファに座って、スマホをいじっている。そして目線はそのままで。
「で、どうした?」
「ああ...... 俺のことじゃないんですけど、なんていうか…」
こんなところまで押しかけて、急に気恥ずかしくなってきた──俺はあんまり、他人に自分のことを打ち明けることをしない。
ユンギヒョンはそんな俺のことを見抜いていた。手元のスマホは、A4サイズの白紙がはさまった黒いバインダーに変わっていた。
「なんでもいいから、心に浮かんだことから話してみろ」
それでも言葉に詰まる。正しい表現が見つからない。
助けたい人がいるって……いや、でもボランティア精神みたいなものでは絶対なくて。使命みたいな感じもするけど、正義感なんかではなくて。彼女をこの世界に繋ぎとめないといけないと思っているけど、それが誰の何のためなのかさえ、自信がなくて──でも。
「死なせるもんかって……思ってて」
やっと絞り出した言葉。ユンギヒョンは黙って俺を見ていた。
「そう思ってるんだけど、ずっと八方塞がりで…… 自分の葬儀費用、自分で貯めたんだって聞いて、そんなことあるかって……なんかすごいショックだったんです。それで…...」
「ここに来た?」
「はい……ユンギヒョン」
「ん?」
「やっぱり...... もしかしたら、もう」
ダメなのかな、彼女は、俺たちは。
俺がやったことは間違いだったのかな。
言葉にすると本当にピリオドが訪れそうで怖くて、口をつぐんだ。グッと唇を噛んで下を向いた俺に、ユンギヒョンが「ジョングク」と呼んだけれど、やっぱり前を向く勇気がなかった。
そんな俺に、ヒョンは。
「大丈夫だ。その子はちゃんと生きるよ」
なんの保証もない言葉。
でも、誰かに力強く言ってほしかったこと。
何の意味もない言葉でも、もう一度、彼女の手を引くために。
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