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19.不可解な茶封筒。

「病室はラブラブするところじゃありませんよー」

 そんな突拍子もない声で目が覚めた。
 すいません、と何度か言いながら急いでベッドから降りる。足元には母親よりも年上に見える、威厳ある看護師さんが立っていた。

(てか、“ラブラブ”って久々に聞いたわ......笑)

 見ると、彼女の顔色はだいぶ良くなっていて安心した。まだぐったりしているから、しっかり休まないといけないのは変わりないけれど。

「回診のお時間ですから、彼氏さんは外に出ておいてねー」

 彼氏じゃないです、って、そこにツッコミをいれるのもこのタイミングでは違うなと思って、素直に「はい」と言うしかなかった。

「じゃあ、俺いったん家に帰って、入院セット持ってくるね」
「ジョングクくん」
「ん?」
「お願いがあるんだけど...」
「何?」
「テーブルの上に茶封筒があるから...... それ持ってきてもらっていい?」

 今朝のバタバタのなかでは全然気づかなかったそれ。何だろう、と疑問は浮かんだけれど、それを聞くのはあまりにも過干渉なんじゃという気持ちと、看護師さんの圧に負けた。

 俺は「わかった」と言って、病室を後にした。

***

「ティッシュと、歯ブラシと...... シャンプー、まだ残ってるからこれ持っていけばいっか。あとは......」

 元カノが「持っていけ」と言ったトラベル用のシャンプーセット。俺にはよくわからないけど、いい香りのするやつ。

 そういえば、目の前のこと──彼女の容態とか、焦りとか、物事がうまく進まないフラストレーションにばかり集中して、元カノとの連絡をおろそかにしたままだったと思う。そんな非情な男に、なんでいつまでもこだわるのか。どこか他人事のように不思議だった。

 1泊だし、準備万端でなくてもどうにかなるだろう。最低限のものを持っていって、明日は彼女を迎えにいけばいい。

 散らばった薬のPTPシートと、空のペットボトルを片付ける。お薬カレンダーのシステム、俺もパッと見でちゃんと飲んでるか確認できるし、いいかなと思ったけど...... しばらくは中止だな。壁からカレンダーを外して、棚の中にしまう。

 うまくいかないことのほうが断然多くて、先が見えない。でも、手離したほうがいいのかと悩むたびに、それを受け入れられない俺がいる。

 あの日、潮の香りがする駅のホームで、彼女が掴んでくれたのは、俺の手だから。それを裏切りたくない気持ちが大きいのかもしれない。

 肩を落とすようなため息をひとつついたところで、彼女が言っていた茶封筒のことを思い出す。それはテーブルの隅に、カドの角度とぴったり合うように置かれていた。

 角は少しくたっとしていて、表面には微かな折れもあった。厚みは数mm程度に見える。どこかから何かをもらってきたのだろうか。救助されたとき、一切の所持品がなかった彼女のことを考えると、そうとしか考えられなかった。

 でも、これは彼女のプライバシーだし、俺はいわゆる“運び屋”なだけだし。ある意味何も考えず、その封筒をつかんでバッグに入れようとしたそのときだった。

「わっ、...... え...?」

 封がされていないことに気づかず、中身が滑り落ちた。

 俺の足元に散らばったのは、数十枚の万札。

 時間が止まる。

 その瞬間、ふっとよみがえった。今朝のコンビニで会った友達の言葉。「売りやってた子」。そんなこと信じてないつもりだったし、高校生のくだらない噂話だろうって思っていたけど、足元に重なって落ちる大金に、不可抗力で思い出してしまった。

 札束どころか1円も持っていなかった彼女が、入院もしくはここでずっと眠っていて、働くことはおろか公助すら受けていない彼女が、どうやってこの大金を用意したというのか。

 昨日、俺が仕事に行っている間?
 彼女はどこにいて、誰と会って、何をして、これを持ち帰ってきて......。

 根も葉もない噂と、目の前の大金。
 理性ではその2つを繋げたくなくても、心情としては、まるで磁石のように繋がってしまう。さらにそこに過剰摂取という事実も重なって、嫌な方向にばかり考えてしまう。

 ベッドの上で抱きしめたことが、あの平穏さとわずかな幸福感が、すごく遠い思い出のように思える。たった数時間前のことなのに。

 俺にできることは、これを持ってもう一度病院に行くだけ。そして彼女に会うだけ、だけど。

***

 病室を訪れたときは夕暮れ前。
 昼間の眩しい光の名残もない。
 色合いが切なくて、俺の心の感傷にも通じるようだった。

 彼女は窓の外をぼーっと眺めていた。

「気分は?」
「うん、大丈夫」

 顔色がだいぶ良くなっていて安心した。薬の半減期を超えて、比較的ラクになったんだろう。

 枕元のそばのサイドテーブルの上に、入院セットが入ったバッグを置く。なぜか少しだけためらって、茶封筒を取り出した。

「はい」
「ありがとう」

 彼女を守りたい気持ちと、俺では無理かもしれないという不安。これまで何度も行き来してきた2つの感情が、これまでになく俺を引き裂いていく。

「なぁ、聞いていい?」
「何?」
「そのお金、どうしたの」

 感情の波は、これがピークで。
 これが、終わりかもしれない。

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