14.冷蔵庫の1万円。
カーテンを閉めたまま、朝の準備を進める。いつもだったらテレビをつけたり、ポッドキャストを聞きながら支度するけれど、彼女の貴重な睡眠を妨げないように、できるだけ静かに。
昨日の夜も、彼女は過呼吸で目を覚ました。たぶん3時くらいだったと思う。
何かに酷く怯えたような彼女。見ると心が痛んで、切なくなった。落ち着いてからも泣き続けて、ひたすら謝る姿は、俺まで途方もない気持ちにさせた。
それでもとにかく、病院に行けば治療を始められる。困ったときはかかりつけ医を頼りにできる。俺にあるのは、その希望だけだった。
冷蔵庫にマグネットで、1万円札を貼る。
部屋に戻り、ベッドのそばに立つ。セミダブルサイズのベッドは彼女には大きくて、隅っこでうずくまる体はとても頼りなく見えた。
できるだけ柔らかい声で、彼女の名前を呼んで、肩のあたりをそっと揺する。
「おはよう。ごめんな、起こして」
「んーん......」
「俺、仕事行くね」
疲れた、つらそうな表情が気にかかった。もしかして体調も崩したかもしれないと不安になって、おでこに手を当てる。
「ん......?」
「熱あるのかなと思って。大丈夫そう」
「うん......」
ふと目が合ったとき、なけなしの自信や希望が崩れた気がした。
こんなに苦しそうな彼女を、俺は本当に繋ぎ止めることができるのだろうか。彼女にとって、厳しくて難しいことしかないこの世界に。彼女がもうとっくに何度も諦めようとしたこの世界に。
「病院代、冷蔵庫に貼ってるから...... 忘れないようにね」
***
「どうした? ジョングク。元気がないな」
「あ、いや...... そんなことないですけど」
休憩時間、先輩に声をかけられてビクッとした。
俺はたぶん精神的に強くて、オンオフの切り替えもうまくて、そこには自負があった。仕事で過酷な現場に立ち会って、体力的に疲れたとしても、顔や態度には出なかったはずだ。
だからこそ、先輩にはめずらしかったのだろう。自分が情けなくなった。
「試験勉強、張り切りすぎてるんじゃないだろうな」
「そんなんじゃないです」
むしろ、ここ数週間は手付かずだ。
救命救急士の国家試験に向けた、医学その他諸々の勉強。まだ期間に余裕はあるけれど、俺の心はかき乱されてばかりだった。
彼女はちゃんと病院に行っただろうか。ちゃんと診断してもらえただろうか。もし、またどこかに行ってしまったら......。
考えても仕方ないと思っても、これまでの傾向から、最悪な結末が安易に浮かんでしまう。
そんな自分に、嫌悪感を覚えた。
***
「ただいま」
24時間勤務を終えて、いつも通り帰宅する。部屋はカーテンが閉まったままで、静かで、暗くて、それも異様なまでにいつも通りで。
部屋に行くまでに、冷蔵庫の前を通る。そこには、マグネットに貼り付けられたままの1万円札があった。それは彼女が病院に行っていない証拠だった。
もしかして、と思いながら部屋を覗くと。
(よかった...... ちゃんといた)
安堵のため息。
ベッドの端には、昨日の朝と同じように頼りなく横たわる彼女がいて、ほっとして全身の力が抜けた。最悪のケースは免れたと思うと、その時ばかりは、冷蔵庫の1万円札なんてどっちでもよくなった。
彼女の顔をのぞく。
相変わらず死んだような静かな眠り。怖くなって、思わず彼女の首元に指をそえた。体温と脈拍。彼女が生きていることを感じる。
「......ん」
「ただいま」
彼女はゆっくりと仰向けになる。俺を見上げる瞳は、カーテンから漏れる朝の光をすくいとって、多量の水分と反応して、キラキラとしていた。
「なんか食べた?」
「......」
「一緒に朝ごはん食べよう」
水分すらまともに摂っていないんじゃないかと思うと、また小さくため息をつくほかなかった。
不安だった。でも、彼女を前にそんなことは言えなくて、気丈な振りをした。
***
「ちゃんとごはん食べなきゃだめだよ」
「うん......」
テーブルに皿を並べて、ようやく朝ごはんを食べ始めたのは10時。お互い、それぞれにシャワーを浴びて、半乾きの髪のままでトーストをかじる。
「これもちゃんと飲みな」
「ありがと......」
インスタントのわかめスープ。体を温めたほうがいいと思って。
1口の大きさが、俺の5分の1くらい。噛む速度も遅い。すごく疲れているように見えたけど、何がそんなに彼女を疲れさせているのか、正直わからなかった。同時に、昨日の朝よりもさらに生気がないことが気にかかった。
だからこそ、早く病院に行かなきゃだめなのに。
「病院、なんで行かなかったの?」
「......ごめんなさい」
彼女はうつむいた。
どんな病気にせよ、早めに治療に取り組むに越したことはない。遅れれば遅れるほど重症化するし、精神疾患の場合は関わる人も増やしていかないと、適切な処置に繋がらない。
俺にはわかりきっていることだけど、世の中にはそれでも、1人でこもりきって治療を拒む人もいる。彼女も本質的にはその類の人間なのだろうか。
テーブルの上に置かれたままの紙。診療時間を確認する。
「今日、病院行こう。俺も一緒に行くから」
トーストはまだ半分くらい残っていたけれど、彼女はそれ以上、口に運ばなかった。
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