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06.狼

 いつも、俺の隣に座らせようとするのに、いつも、彼女はやんわり断るように離れる。

「そんなに意識しなくても(笑)。俺たちが同じ大学出身て、先輩後輩の関係だってみんな知ってるよ?」

 そう笑うと、彼女は微妙な態度と真剣なトーンで「うん……でも、」と返すのだった。

「ソクジンさんと話したい人、ほかにもいるだろうし」

 "ソクジンさん"ねぇ……。
 学生時代に住んでいたあの狭いマンションで、俺たちが過ごしたあの日々を、あの"ジンくん"という甘い響きを、彼女が忘れたとは思わない。それでも、彼女にはもう迷惑なんだろう。過保護な世話焼きも、そうして愛でるのも。昔ならば、彼女は幼く傷つきやすくて、俺のエゴにだって正当性はあったけれど。

 まるで“いつまでそうするの”と問うような彼女は、もう俺の知っているあの幼い女の子ではないのだ。俺はそれが、寂しかったのかな。

 ただ、その日は、俺の予期せぬところで1匹の愉快な狼が動いていた。

(……なんでおまえがいるんだよ)

 営業部のテヒョン。うちの部署とは関わりが深いし、もっと言えば、あの人懐っこい性格(と端麗な容姿)は、他部署の飲み会に紛れ込んだところで歓迎されるそれだ。だけど今日のテヒョンの動きを見ていると、俺は別の目的があるのに気づいた。なんで気づいたかって、それは彼女がらみだったからに決まってるけど。

「大丈夫?」
「テテ……うん、ありがとう」
「まあ、飲みなって! 付き合うよ!」

 彼女とテヒョンは、幸か不幸か(俺は不幸に1票だけど)、同じ案件のチームだった。この前何かミスった彼女のことを、テテは知ってるらしい。

 みんなが自由に動き出したあたりで、テヒョンは彼女をテーブルの端っこの席へ誘導し、その1つ手前に自分が座った。彼女の向こう側は壁で、テヒョンはじりじりと詰め寄る。

(それ、同僚の距離感じゃないだろー…?)

 テヒョンは狙ってやっている――彼女に大量のアルコールを飲ませているのも、全部。

(……おっぱの言うことを聞いて隣にいれば、こんなことにならずに済んだのに)

 これは俺の意地? 怒り? 不満?

(ちょっとはひどい目に遭いなさーい)

 そうして戻ってくれば、迎え入れてあげるよ。
 まだ前半なのにすでに盛り上がっている飲み会で、隅っこで小さく絡み合っているふたりを気にする者はいなかった――と、思っていた。

🦋

 俺と彼女の席は、数m離れた斜め向かい。トイレの前で会った時点でかなり飲まれていたから、気分悪そうにしていたらすぐに帰らせなきゃ――そう思ってちらちら監視してると、余計な、めざわりなものが映った。

 ――テヒョニヒョン、まじで、ちょっと。

 すぐにわかった。彼女をあんなにべろべろになるまで飲ませたのはテヒョニヒョンだ。しかも楽しくてついつい飲みすぎた、という類じゃなくて、何かの目的のもとに飲まされている。だって、テヒョニヒョンほどのモテる男なら普通、女の子がああなったらすかさずチェイサー頼むくらいはできるはずだから。

 俺以外にも、そして俺以上に「狼」な男がこの場にいるとは思わなかった。タチ悪い。

(だからと言って……俺が今あの隅っこに行って無理やり彼女をこっち連れてくるのも…)

 うん、不自然だ。俺がそんなふうにすることで、彼女が俺を過干渉に思うかもしれない。

 献身的で、従順で、愛らしい彼女のことを、いち社員として大切にし、貴重な人材として育てていこうと決めたのだ。その気持ちが揺らぐことなど――…いや、揺らいだ。

 それは飲み会も終わりに近づいた時に訪れた。じわじわと俺の決意を蝕む、それ。

(……離れろ)

 心の中で、俺は完璧にキレていた。

 酔ってぐらぐらしている彼女をあの鋭い目で舐めまわすように見つめながら、彼女のあの太ももや腰にさわっているの、俺にはわかってるんだからな。彼女が抵抗しないのをいいことに。

 ただ、その時俺は混乱していた。混乱なんて役に立たないもの、久しく感じたことがなかった。だから余計混乱した。

 俺がそうしてイラついているのは、テヒョニヒョンが倫理に反した行動をしているからではなかった。いや、もちろんそんな卑劣な行為は許せたもんじゃない。けど、あの白くて柔らかくて官能的な彼女のカラダを、他の男が味わうことになるという予感に、なぜか俺は激しくイラついていた。

(ふれるんじゃなかった……)

 俺は、彼女との時間、そしてトイレの前でふいに彼女を抱きしめてしまったことを、激しく後悔していた。あの感触が俺を完璧に狂わせてしまった――そう気づいたときにはもう遅かった。

「じゃあ、俺、彼女のこと送っていきますね~」

 テヒョニヒョンの、夜に滲まないほど明るい声が響く。そして誰もその声色を疑わない。

 ふたりは俺の隣を通り過ぎた。テヒョニヒョンは「グク、お疲れ」と笑った。

 それが故意の微笑みだとは、その時の俺は気づかなかった。

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