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12.息を吐くということ。

 物音で目が覚めた。

 仕事柄、意識がはっきりするまではすぐだった。認識したのは、その物音が激しい呼吸音だということ。

 気づいた瞬間にベッドに上がり、彼女の名前を呼ぶ。壁に手をついて、苦しそうに肩で息をするその体は、今にも倒れそうだった。

「こっち見て」

 二の腕あたりをつかんでこっちを向かせる。頬には涙の跡が何筋もあり、目には今にも溢れてしまいそうなほど、次の涙が溜まっていた。

 過呼吸とパニック症状。俺の声が届いているのかもわからなかった。

 不安定に激しく呼吸を繰り返す彼女。腕のなかで前屈みになりかけた瞬間に、俺は強く抱き寄せた。上半身を軽く圧迫するように。

 そのまま耳元で、できるだけ落ち着いたトーンで語りかける。

「大丈夫だから。落ち着いて息して」
「う...ッ、はあ、はあ....ッ」
「ちゃんと吐ききって」

 そうは言っても、混乱している彼女がすぐに対応できるわけではないのはわかっていた。呼吸なのか、泣いてすがる声なのか、どちらにせよ苦しみが伝わってくる。

「大丈夫、落ち着いて」

 そう何度も繰り返した。苦しくてもがく体を制して、タイミングを図りながら呼吸を指示し続ける。

 入院中、主治医から聞かされていた症状。いつか目の前で起きるだろうとは思っていた。

 確かにこれが頻発しているとなると、体力も精神力もだいぶ消耗するだろうし、相当つらいだろう。主治医の言葉を思い出しながら、彼女の背中をさする。

「はい、ゆっくり息吐いて」

 焦って息を吸おうとする彼女に、何度も語りかける。混乱しながらも、素直に俺に従おうとしてくれているのは伝わった。それほどつらいということでもあるだろう。

「焦るな、大丈夫だから...」

***

 正確な時間はわからないけれど、おそらく1分くらいだったと思う。彼女の呼吸が落ち着くまで。

 激しかった呼吸音がおさまると、今度は彼女の泣き声が響き始めた。身体的な苦しさの延長と、混乱の余韻なのだと思う。

「よく頑張った。つらかったな」

 涙する彼女を抱きしめたまま、背中をとんとんとさすった。小さな子どもをあやす時のように。

 俺よりひと回りもふた回りも小さなこの体で、たった独りでこれに耐えてきたのだと思うと、胸が痛んだ。そうするとますます、彼女をここに連れて帰れたことにほっとするのだった。

 彼女を救えるなんて、相変わらず思っていない。俺はヒーローなんかじゃない。けれど、目の前で起きていることに対処するくらいは、俺でもできるはずだった。独りですべてを背負って、すべてを終わらせようとした彼女にとって、根本的な解決にはならなくても。

 うまくできるかはわからなくても、誰かが繋ぎ止めないといけない。そんな思いだった。

 彼女は鼻をすんすんとすすって、ちょっと落ち着いたようだ。大人しく腕のなかにおさまっているところを見ると、ようやく少し安心した。

「大丈夫?」
「ん......」

 消え入りそうな声とともに、小さく一度頷く。それを見て俺も、うん、と頷いた。

 時計は朝8時を示していた。カーテンの隙間から、朝の白い光がもれているのにようやく気づく。

「少し寝た?」
「うん、ちょっと...」
「苦しくて目が覚めた?」

 彼女はうつむいて、少し戸惑って、でも確かに頷いた。その振動で、瞳に残っていた涙がふっとこぼれた。

「嫌な夢でも見たか」

 ティッシュをとって、頬をぽんぽんとふく。

 どんな夢なのか、聞いていいのかな。でも嫌な思いをしたら、すごく嫌だな。どんなトーンで、どんな表情で、何を言ってあげるのがベストなのかな。

「ごめんなさい......」
「俺、謝ってほしいことなんて1つもないよ」

 なんとなくその謝罪は、俺が目覚めてしまったことや、こうして介抱をしたことに対してだけではない気がした。もっと大きな意味を含んでいるような。でも、それを深堀りする勇気もなかった。

「疲れただろ。もうちょっと寝れそう?」

 彼女は頷きもしなかったけれど、俺は「横になりな」と声をかけた。何にせよ、入院生活からいきなりあんな遠出したんだから、疲れも溜まっているだろう。

 素直に横になった彼女と、ベッドに腰掛けたままの俺。

「今度、息苦しくなったら、息吐くことに集中するといいよ」
「そっか......」
「俺ももうちょっと寝よう」
「うん」

 お互いちゃんと眠って、ちょっとすっきりしたら、これからどうするか話そう。あさっては24時間勤務だから、できれば今日のうちに少しでも。

 ベッドの下に敷いた布団にふたたび潜る。

「ジョングクくん」
「ん?」
「......何でもない」

 彼女はきちんと眠れたのだろうか。

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