25.それが必要な理由を。
彼女に会いに通った病院。
面会受付、エレベーター、屋上庭園への階段。もう全部が懐かしい。
今の先生が悪いというわけじゃない。彼女がちゃんと話そうとしなかったことも十分にあると思う。それを考えれば、病院を変えたところで一緒かもしれない。
でも、誰にでも相性があるように、先生と患者にも相性があるはずだ。なんとなくだけど、あの先生は彼女に合っていないような気がして。威厳ありまくりの先生の前じゃ、何か言いたくても難しいんじゃないかなって。
それもこれも、アクセスであの病院を選んだ俺の責任だけど。
名前を呼ばれて、診察室の扉を開ける。
彼女の病状やケガの状態を話したあの病室には、あの先生が変わらず座っていた。
「おはようございます。お久しぶりです」
「あの子は元気にしてますか?」
「それが......」
「まあ、時間はかかるよね。のんびりやるんだよ」
丸椅子に座って、先生と向き合う。
「それで、どうしたの?」
「このあたりで、先生が一番信頼できると思うメンタルクリニックはどこですか?」
「今はどこにも通院してないの?」
「してるんですけど......」
「うまくいってない?」
「俺にはそう見えます。彼女にもいろいろあるんですが......」
「どこの病院?」
「××病院の心療内科です」
「ああ、全然悪いところじゃないけど、総合病院って忙しいからね。どうしても流れ作業っぽくなっちゃうっていうか。ゆっくり長くお付き合いするなら、地域の個人病院のほうがいいかもね」
先生は、正方形の分厚いメモ帳にペンを走らせた。そこには病院名、町名、先生の名前が書かれた。
「その先生は僕もよく知ってるから。いい先生だと思うよ」
「ありがとうございます」
「でも、どんなに先生がよくても、患者さんが治そうと思ってないものはどうにもならないからね。特に心の病気はね」
「はい」
「焦ってドクターショッピングするのもよくないからね。患者さんの負担になるから」
俺って過保護なのかな。やりすぎかな。今の先生でも、本当はいいのかな......。
「君も真面目なんだよねぇ、きっと」
「えっ、そうでしょうか?」
「焦らないでのんびりやるんだよ。共倒れしたら大変だからね」
「はい」
「彼女がちょっと元気になって、少し外に出られるようになったら、ちょっとデートでもして」
......来るのかな? そんな日。
***
彼女はベッドに座ってうつむいたまま、何も言わなかった。
長い髪を耳にかけた。
表情が見えないのが不安だったから。
「嫌だったら行かないよ」
彼女の表情が明らかに沈んで、唇を噛んで──だったらその理由を教えてくれたらいいのにって思わないこともない。だけど。
ユンギヒョンの言葉を思い出す。
この世には、誰かを信じること、信じて打ち明けること、その成功体験を持たない人がたくさんいる。きっと彼女もその1人。もし生まれる場所や生きてきた環境が違えば、俺もそっち側にいたかもしれないということ。
彼女はそのまま、何も言わなかった。そうしてすぐに退院時間がやってきた。
「......行けそう?」
彼女は数秒の沈黙のあとで、黙って頷いた。だけど、その表情がとても悲しそうで、納得がいっていないものだということは、何となく伝わっていた。
***
タクシーに乗る?と尋ねたけれど、彼女は首を横に振った。
もとから楽しそうな表情なんて一度も見せたことはないけれど、病室で俺が話してからは明らかに沈んでしまったから、かなり後悔した。間違ったことをしたとは思っていないけど、正しいことがいつもベストだとは限らない。
彼女は俺の1歩後ろを歩いた。ひょこひょこと歩く足は相変わらずで、俺はいつもの半分くらいのペースで歩く。
昨日の夜はユンギヒョンにいろいろ教えてもらって、なんだかちょっとうまくやれるかもと思ったけれど...... 現実はやっぱりまだまだ閉塞感があって。俺たちの間には沈黙が重くのしかかるし、どんな未来があるのかもわからない。
はあ、とため息を吐きそうになった、その時だった。
何か声がした気がして振り返る。
3歩くらい後ろで立ち尽くす彼女。
「どうかし、た......」
言い終わる前に、涙がこぼれたのが見えた。それが涙だと気づいたときには、また次の涙が溢れてきていた。どんなに唇を噛んでも小さく漏れる嗚咽が、俺の耳に微かに届いたそれだった。
「どうした? 気分悪いか?」
「ごめん......」
焦ってしまったからか、落ち着いてほしかったからか、俺は道端で彼女を抱きしめた。しっかりと頭を抱き抱えるようにして、涙がほかの通行人に見えないように。
「急に苦しくなった? ちょっと休もうか」
背中を優しくさする。どうか、どうか、パニックに...... 過呼吸になりませんように。
「病院、今度にしよっか。今日はまっすぐ帰って──」
「なんで病院行かなきゃいけないの?」
「え......?」
「名前がついても何も変わらないし意味ない、これまで間違ってきたことも全然直せない。なのになんで病院行かなきゃいけないの?」
一気にそう話すと、彼女はわんわんと泣き始めた。再会してからずっと静かで、誰にも何も悟らせようとしなかった彼女が、初めて感情を出した瞬間だった。それでちょっと唖然としてしまったけれど。
「......違うよ、違う」
彼女をぎゅっと抱きしめる。内心は少し焦っていたけれど、できるだけ自制して穏やかなトーンで伝える。
「診断名がつけばどうにかなるとか、苦しかったことが全部なかったことになるとか思ってないよ。過去は過去で全部忘れろとも全然思ってない」
ちょっと呼吸が浅くて危ない。「ゆっくり呼吸して」と言いながら背中をさすると、素直に深呼吸してくれようとして、とてもありがたかった。
「病院に行くのは、今日とか明日をちょっと楽に過ごすためだよ」
「え......?」
「眠れないと疲れちゃうし、ごはん食べれないのってつらいし...... そういうのを和らげてもらうためだよ。先生が助けてくれたり、薬で少し楽になることもあるから、使えるものは使ってまずはゆっくり休んでほしい」
抱きしめると、体の華奢さが余計伝わってくる。
「これ以上、苦しい思いなんてしなくていい」
思ったよりもたくさん言葉にしていこう。
誤解がないように、悲しい思いをしないように。
例え、わかりきったようなことでも。
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