見出し画像

22.また始めるために。

 どれくらい時間がかかったのかわからない。何からどう話せばよかったのかも。

 俺は、彼女に起きたこと、俺の関わり方を最初から全て話した。再会したあの瞬間から、今日起きたことまで、全部。

 ユンギヒョンは時々「それはこういうことか?」と確認を挟みながら、手元の紙にメモを残していった。

「俺は何度も“なんで”って思ってきたんです。なんでちゃんと薬飲まないの? なんでちゃんとごはん食べないの? なんで良くなるために努力しないの? できることたくさんあるじゃん、やらなきゃいけないじゃんって...... でも」
「うん」
「俺の“なんで”って、生きていくこと、健康になることを前提にするから沸いてくる疑問だって、本当はわかってた」

 彼女は違うということも、本当は見えていた。

 生きることがつらく苦しかった彼女が、何を糧に生きようと思えるのか。良くなることに意味を見いだせるのか。そんなことができるわけなかった。金をかけて治療しても、薬を飲んでも、外に連れ出されても、彼女の世界は前と同じまま。逃れたいと思う世界のまま。

 でも、認めたくなかった。
 日に日に深まっていく溝も、いつか取り返しのつかなくなることになるという予感も。

「見て見ぬ振りしてきたけど...... これじゃたぶん、終わるって......」

 この日々と、彼女の世界が。

 うなだれる俺に、ユンギヒョンはいつも通りのトーンで話し始める。落ち着いた低い声は、何度も大丈夫だと言われているような気分になった。

「まず、あんまり自分を責めるな。おまえの言動は、人間だったら誰しも持ち合わせてるものだから」
「誰でも?」
「ああ。正常性バイアス、おまえも聞いたことあるだろう」

 もちろん聞いたことがあった。火事や地震といった災害時に逃げ遅れる人は、大抵それが原因だ。目の前で起きている異常事態を信じたくないあまり「大丈夫だ」「これくらい問題ない」と自分に言い聞かせてしまう。防災教室では、子どもやお年寄りにもよくよく伝える内容だった。

「いつ何が起きるかわからない、極端な選択をしかねない人間を1人で支えて、ストレスを受けないわけがない。どんなにおまえが強くてもな。ストレスを和らげるために“状況はきっと好転する”と思おうとするのは、普通のことだよ」
「でも、正常性バイアスって悪いことじゃないですか」
「それは短絡的すぎるだろ。正常性バイアスっていうのは防御作用の1種だ。脳はそうやって心を守る。単純な善し悪しで判断できることじゃない」

 そう言われても違和感はある。俺の判断は遅かったかもしれない。そのせいで不必要に彼女を傷つけたかもしれない。

 でも、そんな俺を見抜くようにユンギヒョンは「誰もおまえを咎めないよ」と言った。

「実際、おまえはこうやってちゃんと俺のところに来たんだ。最後まで正常性バイアスを破れずに、家族やパートナーを追い詰める人間はざらにいるからな」

 もしかすると彼女のまわりにいた人も、そうだったのかもしれない。彼女が出した小さなサインを都合の悪いものとして見て見ぬふりしたり、過小評価したり──俺もきっとそうだったわけで。

 ユンギヒョンは立ち上がり、壁に貼られたホワイトボードシートの前に立った。

「何でも手順っていうものがあるだろ。救助活動も、まずは意識、次に呼吸があるか確かめて、必要だったら心肺蘇生するとか。状態によって必要な手当や救助方法も変わるよな」
「はい」

 そばのペン立てから黒いマーカーをとって、キャップを開けた。そして縦線を引いていく。

「うつ病もそれと一緒。治療のステップによって必要な手当が違う」

 縦線が2本引かれたボードは3分割になる。そして、ユンギヒョンはまず右のスペースをマーカーで指した。

「最初のフェーズは『急性期』だ。治療を始めてから、症状が改善していくまで。簡単にいえば一番危ない時期。その子は今ここにいるんだろうな」

 ユンギヒョンは急性期と書き、そこから要点を書き込みながら話す。

「ここで一番重要なのは、十分な休息をとること。さっき話を聞いていると、おまえは彼女を励まそうとして、うまいもの食わせようとしたり、楽しいことをさせようとしたりしてるような気がするんだが──」

 その通りだった。
 いつも暗い部屋で、ベッドでうずくまる彼女を見ていると、これで良くなるのか不安になった。散歩に行ったら気分転換になるんじゃないかとか、おいしいごはんを食べたらちょっと幸せになれるんじゃないかとか、それが何かのきっかけになるんじゃないかって、信じたかった。

「それは次の『回復期』のフェーズからだ。今はとにかく休ませる」
「でも、休息だけでよくなるんですか」
「わかりやすく言うと、iPhoneみたいなもので」
「iPhone?」
「電源が10%や20%なら充電すればいい。うまいメシ食ったり、友達と話したりしてな。そしたらまたしばらく動き続けることができる。でも、急性期の人間は完全放電、つまり0%の状態だ。電池が0%になって電源が落ちたあと、どうなる?」
「充電器に繋げますけど......」
「すぐに再起動するか?」
「......いや、5%くらいになってからつくかな」
「なんでかわかるか」
「なんでだろ。いつも不思議だったんですよね」
「完全放電したあとは、起動するために必要な電力すらないんだ。だからもう一度電源が入るまで、しばらく時間がかかる」

 そこまで聞いて、ようやく話の輪郭が見えてきた気がする。

「急性期は、他人から見たら画面が真っ暗で、何も動いていない状態。『なんで怠けてるんだ』って思うだろう。でも、とにかく休んで最初の5%を溜めないといけないんだ。また始めるために」

 “また始めるために”。
 俺はその言葉を口でなぞった。きっと俺が望む、単純で難しいもの。

「俺、電力がたまりきってないのに、無理やり電源つけさせようとしてたんだ......」
「ま、そうだな」

 あっさりとそう言われて、グサリと刺さる。でも、そんな俺の善意で追い詰められたのは彼女のほうだ。自分を省みて、彼女はどんな気持ちだったんだろうと考えると、心苦しくなった。

 そんな俺を横目に、ユンギヒョンは続ける。

「急性期には休むことが必要だが、不眠・不安症状のせいで難しいことも多い。だから、薬を使って低下した脳の働きを助ける必要がある」

 ユンギヒョンは“薬による治療”と書いて、そこから左端まで矢印を引いた。

「服薬は基本的に、治療が終わるまで続けることになる。急性期はちゃんと休むため、それ以降は落ち着いて生活するためだ」

 だけど、彼女はちゃんと薬を飲まない。治療にも前向きじゃない。それが俺の“なんで”という気持ちや、2人の溝をどんどん深めてきた。その度に俺は切なくなって、絶望的な気持ちになった。

「なんか納得いってなさそうな顔だな」
「俺、もっと頼ってほしいんです。つらい時につらいって言ってくれたら俺がどうにかするし、薬が嫌だって言うなら嫌じゃなくなる一緒に方法を考えたい。けど...... 彼女は何も言わなくて、1人で抱えるから...... 俺、怖くなるんです」

 ふとした瞬間に終わりそうで。彼女が諦めてしまいそうで。俺はそれに気付いてあげられる自信がなくて。

 ユンギヒョンはマーカーのキャップをはめて、一度小さく息をついた。腕を組んで、じっとカーペットの一点を見つめたあとで口を開く。

「難しい問題だな」
「はい......」
「ジョングクは今日、こうして俺のところに来た。それは俺との間に信頼関係があるからだし、もっといえば、これまでの人生において、困ったときは誰かに言えば助けてくれるという成功体験があるからだ。でも、世の中にはその体験を持たない人間がたくさんいる」

 俺にとっては当たり前のこと。
 困った時に助けてくれと声を上げること。
 この人だったら大丈夫という関係があること。

 それは、俺の努力で手に入れたものではない。恵まれた環境で育ってきたからだ。

 俺はふと、これまで救助にあたってきた、俺には理解できなかった人たちのことを思い出した。こうなる前に病院で治療すればいいのに、家族に頼ればいいのに、社会制度を使えばいいのにーーでも、誰かを頼っていいことも知らないまま、本当に独りで生きてきた人にとってそれは、想像したがいほどに難しいことなのかもしれない。

「人間は、画面をタップすれば設定が変わるような機械じゃない。信頼を覚えるには、時間が必要なんだよ」

 自己責任の枠に押し込むのは、あまりにも非情なことのように思える。決して、すべての痛みを理解できるわけじゃなくても。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?