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23.遠くの君へ。

 チャリを漕いで、いっそう涼しくなった秋風に包まれる。一気に情報を突っ込んでヒートした頭が、少しクールダウンする。

「1ヵ月半か......」

 夜空に呟く。

 彼女が今彷徨っている“急性期”の治療期間は、だいたいそのくらいだとユンギヒョンは言った。もちろん、深刻な状態であればもっと長くかかる場合もある。それでも「まずは1ヵ月半だ」と言われて、気が引き締まる思いだった。

 もうダメかもしれないと思った夕暮れ時の感情は、すっかり消えたわけではないけれど、だいぶ薄まったように思う。

「俺、何も知らなかったんだな......」

 青に変わった信号とともにペダルを漕ぎ始め、また呟く。

 確かに俺も忙しかったし、アップダウンの激しい日々と初めての光景ばかりで、なかなか余裕がなかったのも事実だ。でも、救助隊員になったときと同じように、誰かを救おうと思うなら知識が必要だーー当たり前のことだけど。

 心というものを同じように持っているから、なんかわかるんじゃないかって思い込みがあったんだと思う。俺の心と君の心は、見てきたものも傷の深さも、何もかもが違うのに。

 もう病院は就寝の時間。
 彼女はちゃんと眠れているだろうか。

***

 帰宅したのは深夜1時。
 彼女の入院セットをバタバタと用意したときに、散らかったままのあれこれ。それを気にならない程度に端に寄せてから、ローテーブルのそばに座る。

 バックパックから、飲みかけのペットボトルとレジ袋を出す。ピシッとしたツルツルのレジ袋から1冊の本を取り出した。

 ユンギヒョンから教えてもらった本。駅前の深夜0時までやっている本屋に寄って、買ってきたものだ。

「治療のステップ......」

 ユンギヒョンがホワイトボードに書いてくれた内容だ。

 まずは急性期。治療を開始してから、いろんなつらい症状が改善していくまでの期間。薬で脳の働きを助けながら、十分な休息をとる。これが1ヵ月半くらい。

 症状が落ち着いたら回復期に入る。その名の通り、元の生活に戻していくための期間。睡眠や生活リズムの調整をしていく。散歩などの軽い運動もこの時期から。無理をすると急性期に戻ってしまうから、焦らないこと。これが4ヵ月以上かかる。結構長い。

 最後は再発防止期。このときにはある程度普通の生活ができるようになっているから、再発を防ぎながら減薬していく。これが半年以上。

 こうやって見るとシンプルだけど、ユンギヒョンは言っていた。「良くなったり悪くなったりを繰り返して進んでいく」と。そういう予備知識があれば、不必要に焦ったり不安になることもないのだろう。

 本には、身近な人がどう向き合うべきかも書いてあった。だからユンギヒョンはこれを勧めてくれたのかもしれない。

 急性期の間は、善意であっても無理強いせずそっと見守ること。一緒にごはんを食べたり、一緒に眠るだけでも十分なこと。コミュニケーションをとるときは、本人が自責するような言葉は避けること。

「これ、めっちゃ俺じゃん......」

 なんでごはん食べないの、薬ちゃんと飲まなきゃダメじゃんって、何回も言ったなぁ。その度に彼女は自分を責めたんじゃないだろうか。何度も「ごめんなさい」って謝ってたな。思い出してため息をつく。

 うつ病患者の特徴には「自責感が極端に強まる」ことがあるそうだ。そう考えると、普通は「ありがとう」っていう場面でも、彼女はよく「ごめんね」って言ってたっけ。全然謝ってほしいことなんてないのに。

 図説が多い薄い本だけど、俺はじっくりと目を通していく。

 気づけばカーテンの向こうに朝の気配があった。それに気づくと反射的にあくびが出て、1つ伸びをした。

 ここはまだ、暗闇だけど。
 それでもずっと向こうのほうに、ぽつりぽつりとマイルストーンが見える。それだけでも安心した。

 それは思ったよりもしかしたらずっと遠いところにあるかもしれないけれど、俺たちはそこを目指して、一緒にゆっくり歩いていけばいいんじゃないか。そんなふうに思いながら、授業中の居眠りのときみたいに、テーブルに体を伏せる。

 ねぇ、君は。
 また俺の手を取ってくれるのかな。

 俺はまだ、君をこの世界に繋ぎ止めたいよ。

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