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26.不快な優しさについて。

「失礼します」
「はい、こんにちはー」

 ジョングクの後について診察室に入る。中からは女性の声が聞こえて少し驚いた。男の先生だと思い込んでいたから。

 総合病院とは違って、スローでこじんまりとしたクリニック。待合室のざわつきやステンレスワゴンが行き交う音も、ここではまったく聞こえない。音も視界も、刺激が少ないことで少し安心した。でも。

「今日はどうしました?」

 その問いに完全に固まる。

 私は本当に一体、どうしてしまったんだろう。こんなはずではなかったのに。どこから手をつけても手に負えない感じが、私自身を圧倒する。それで私は俯くしかなかった。

 苦しかった。

 そんな様子にいち早く気付くのはもちろんジョングクで、あの大きくて温かい手のひらが背中にふれる。その感触で、きちんと息をしなきゃと思う。過呼吸になるたびにいつもそうしてくれるから、もはや条件反射なのかもしれない。

 ジョングクは「話せる?」と優しく尋ねた。それでも固まって、息をするだけで精一杯の私。彼は「僕から少し話してもいいですか」と確認し、先生が頷いたのが視界の端で見えた。

 彼が見た私のすべて。全部自分でやったくせに、彼もそんなこと話したくないはずなのに、説明させていることが申し訳なかった。

 淡々と事実を整理して伝えるジョングクと、「うんうん」と頷きながらキーボードを叩く先生。内容はとても気持ち悪いことだらけなのに、2人が一切感情的にならないことが不思議で、どこか他人事のような感じもあった。

「......はい、わかりました。じゃあ、ご家族のこと聞いてもいいですか?」

 その言葉でまた体が固まって、頭が真っ白になる。前の病院では、身近に支えてくれる人はいるかと聞かれたけれど、家族のことは聞かれなかった。

「成育環境のことなど、少し教えてもらいたいんだけれども」

 しばらく続いた沈黙を破ったのは、ジョングクだった。

「俺、外に出てるね。先生、よろしくお願いします」

 きっと、自分がいると話しにくいと思ったのだろう。彼に聞かれたくなくて安心した気持ちもあれば、その一方で、ジョングクの手のひらが離れて不安にもなった。

 振り向くとジョングクと目が合った。彼は“大丈夫だよ”というように優しく微笑んで、診察室の扉の外に出た。

***

 目を覚ますと、部屋はすっかり暗くて、夕焼けの名残みたいな色が混じった夜だった。

 何かに包まれたように暖かくて、安心できる適度な重みを感じて──それはジョングクの腕だった。そっと見上げると、すやすやと眠るあどけない表情。

 この部屋に帰ってきたのは14時くらいだったと思う。

 あの診察室での出来事は、しばらくは思い出したくないほどに鋭くて、苦しくて──私が言語化せずに終わらせたかったもの、そのまま葬り去りたかったものの一部を、他人に明かさなければいけなかったのだから。

 診察室から出た後の記憶はあまりない。ジョングクがすぐに家に連れ帰ってくれて、寝かせてくれたことだけ、なんとか覚えている。

 彼の献身性と頼もしさを、この数ヶ月間、嫌になるほど知った。この腕で私を支え、何度も大丈夫と言ってくれた。でも私は、本心ではどうすればいいのかわからなくて、突き離されないことがもはや不快で、不安だった。

「どうした?」

 不意に声が聞こえて驚く。「起きてたの?」と問うと同時に、彼が間接照明をつけた。ぼんやりと明かりが灯る部屋。

 ふあ、と欠伸をして、一度大きく伸びをして、もう一度私のほうを向く。半分くらいしか目が開いていないジョングクとしばらく見つめ合う。

「苦しくない?」
「うん...... 起きただけ」
「そっか。ちょっとスッキリした顔してる。安心した」
「ごめんね、いろいろ......」

 夜勤明けでトラブルに巻き込んでしまったことも、ぐったりした私をクリニックからちゃんと連れ帰ってくれたことも。もっと言えば、その前から全部。

 ふと、気のせいみたいに指先がふれる。

「これは俺からの提案なんだけどさ」
「うん」
「しばらく“ごめん”は禁止にしない?」
「なんで?」
「うーん...... なんか“ありがとう”のほうが嬉しいかも。恩着せがましいかもしれないけど(笑)」

 リラックスした爽やかな笑い声。許されるなら、ずっと聞いていたいと思うような。

「本当に“ごめん”のときはどうするの?」
「そのときはちゃんと“俺は怒ってます!”ってまず伝える(笑)。悪かったなと思ったら、初めて“ごめん”って言って」
「こんなに迷惑かけてるのに、嫌じゃないの......?」
「うん。嫌じゃないよ」

 間髪入れずに優しいトーンでそう言われて、また居心地の悪さを感じる。意味がわからないって突き離されたほうが、まだ何を考えているかわかるのに。

 ジョングクは、絶対そうしなかった。

「俺のほうこそ、嫌な思いさせてごめん」
「え......?」
「本当はしっかり休まなきゃいけない時期なのに、どっか行こうって誘ったり、なんで?って言いまくったり...... よくなかったなって反省した」

 そこまでくると唖然としてしまって、もう言葉が出なかった。それで、彼の瞳をじっと見つめてしまった。そんな私を彼もまた見つめ返して、もう一度「ごめん」と謝った。

 許すも何も、それがジョングクの善意だということは伝わっていた。良かれと思ってしてくれていることに、ちゃんと応えられなかったのは私だったのに。

 微かに触れ合っていた小指に力が入って、指切りのかたちになる。

「ねーさんが一番頑張ってるんだから、謝らなくていいんだよ」
「......」
「“ごめん”は、今俺が言ったみたいな本当に“ごめん”のときだけ。約束ね」

 頷いて、指切りげんまんして、私が「ありがとう」と言うと、ジョングクは嬉しそうに微笑んだ。

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